──間もなく領地に入るという報せを受け、将軍は自ら娘を迎えに行き、道中に合流した──


 隊列はゆっくりと進む。
「叔父貴」
 気安く話しかけてきたのは甥のアンドレ、若干二十歳の青年である。
 北軍には入隊せず、都下の衛兵隊にて武者修行中だと本人は言うが。
(羽根伸ばし中の間違いだろ。早々に西軍にでもほっぽり込んだ方がいいな)
 苛烈な鍛錬で名を馳せる西軍への入隊は、本人は元より、母である自分の姉でさえ渋るだろうが、鉄は熱いうちに打てと言うように、人間も若いうちに苦労していた方が良い。北方将軍である自分の後釜に座ろうと考えているなら尚更。
 将軍の憂いは露知らず、アンドレは能天気に馬を並べた。
「せっかくの嫁入りなんですから、もっとこう、派手にならなかったんですか?」
「ふん、くだらん」
 鼻であしらったが、それは自分も考えたことだ。
 本来なら賑々しく花嫁行列とやらにしてやりたかったところだが、花嫁の父公爵の意向で将軍の常の出仕と変わらぬ質素な縦隊だ。違うところと言えば、姫君の乗る4頭立の馬車1台、侍女やら貴重品やらが乗る2頭立が5台加わり、離宮から出たことのない姫君のために馬車は馬が欠伸するほどのんびりと進んでいることくらいだろう。これなら、徒歩の下女7人、その他宝飾、衣類、老いぼれの戦バカには分からぬあれやこれやを運ぶ人夫と馬、締めて19人と8頭も、そう遠くなく追いつくに違いない。
(せめて城下に入ってからは、盛大に迎えてやるかな)
 近頃、都はきな臭い。花嫁のいた離宮も無縁と言う訳にはいかず、つまりこの嫁入りは一種の疎開だ。
 だからこそ、三十も歳の離れた将軍に白羽の矢が立った。
 北方将軍の掌握する北部は、都から遠く離れ、気候も人も大きく違い、もはや異国に近い。そこで落ち着いた暮らしをさせてやろうという親心が、今回の縁談に繋がったのだろう。
「とか言って、若いお嫁さんを隠したかったんでしょ。見せびらかせばいいのに」
「姫君は、公爵閣下からの大事なお預かりものだ」
 親子ほど年の離れた婚姻も、位をもつ者には珍しくないとはいえ、その差は三十歳である。自分が小児性愛者と吹聴されるのは構わないが、深窓の令嬢が謗りを受けるいわれはない。
 それに、自分の亡きあと、もしくは都が落ち着いた暁には、父公爵かそれに並ぶ保護者の元へ返すのが道理。故に。
「間違えるなよ」
 姫君に相応しい場所まで送り届けることが、自分の役目。名称こそ夫となるが、内実は庇護者である。
 アンドレは、分かっているのかいないのか、ハイハイと軽く頷くばかりだ。
 と、そこへ後方から声がかかったのは、領地に入って間もなくのことだった。
「閣下。お姫様が──」
「何?」
 戦場もかくやという勢いで伝令者を問い質すと、しかし姫君を驚かすまいと、馬車にはごく優雅なトロットで近寄った。
「姫君、馬車から降りたいと伺ったのだが、ご気分でも害されたか?」
「いいえ、お外の空気に触れたいとの由」
 侍女がカーテンを少し避けて答えた。
「姫君は、馬に乗れるのか?」
「人をつけていただければ」
 そう答えながらも、侍女はわずかに眉根を寄せた。盲目の姫が一人で馬上に上がるのは、馬丁をつけても心配なのかもしれない。
「わたしと同乗するので良ければ、お降りください。でなければ、ここいらは足元が悪いゆえ、しばしお待ちいただきたい」
 馬車はすぐに止まった。よって、隊も止まる。
 馬車の扉が開くと、将軍は馬を降りた。
 侍女に先導されて、花嫁が降り立つ。
(姫が、我が地に……)
 突如として深い感慨が押し寄せ、将軍は戸惑った。
 一度見たきりの姫の肌は相変わらず白く、腰などは将軍の脚より細い。
 しかし、その瞳は高い天と同じ空色で、僅かな夏を喜ぶ北国の生きとし生けるもの全てと等しく爛々と輝いている。
(あれで見えないとはな)
 父公爵のサファイヤのような鋭い青とも、海のように深い碧だったという母君のとも違い、姫君の瞳は落ち着いた水色で、それこそが白濁して視力を失っている証らしいが、かえって聡明そうに見える。
 将軍が手を貸して馬上に乗せると、どよめきが起こった。
 随行者は、若い連中が多いのだ。高貴な姫君を前に平静でいられるはずもない。
(姫さんが怖がったら、どうしてくれる)
「なにか日除けを。気温は低くても、日射しはきついのでな」
 侍女からせしめたストールを姫にすっぽり被せると、将軍は姫の後ろにまたがり、馬を進ませた。


 娘は、自らの身を預けた馬の大きさに驚嘆していた。
(こんなに大きなお馬は、初めてだわ)
 捕まりどころのない左手をキュウと握る。
(それに、こんなに大きな人も初めて)
 右手は、夫となる人のシャツをしっかと掴んでいる。
 防具でも身につけているのか、右腕にあたる感触は硬く、ビクともしない。そして、その下の胸板も恐らく厚い。背中がどこにあるのか分からないほど分厚い身体に触れるのは初めてだ。
 娘は好奇心の赴くまま、四方八方に感覚を研ぎ澄ませていたが、やがてくったりと力を抜いた。
 直接伝わる馬のリズム、そして肩をもたせかけた後ろの男、どれをとっても馬車よりよほど心地好い。
 耳を澄ますと、ピーヒョロロロとついぞ聞いたことのない鳥の軽やかな歌声が響いていた。
 だから、クッション代わりのその人が話しかけてきたとき、娘はもう少しで居眠りしてしまうところだった。
「その……城では、すまなんだ」
 男の太い声が、腹に響いて娘は驚いた。耳より先に、肌から直接震えが伝わるようだ。
「何がですの?」
「お前さんの城に到着したときの口上、あれが戦場での名乗りのようだったと部下に諌められてな。俺はいくさ場しか知らんので、ああいう立派な城ではどうしていいか分からん」
「構いませんわ。わたくしも舞踏会など出たことありませんもの」
「あ、いや、それは……」
 男は慌てたが、娘は全く気にしていなかった。
 舞踏会など、出たくもない。少女の頃に好奇心から会場の裏手まで忍んで行ったことがあるが、酒と煙草と香水の臭いが酷くて、いくらもいれたものではなかった。
 しかし、この男からは、汗と干し草のような乾いた香りがするばかりだ。
(この人は、お日様と仲良しに違いないわ)
 ほとんどの人間は臭すぎると思っている娘は、それだけで好感を抱いていた。
「それにわたくし、あなたのお声を聞いて、なんて頼もしい方かと思いましたの。わたくし、目が見えない分、耳は良いのですよ。お城の奥のわたくしのお部屋にいても、お外からちゃんとあなたのお声が届きました」
「それは俺の声がデカすぎたということで……」
「お声の大きさだけではありませんよ。お声で人となりが分かるのです。悪いことを考えている方なら、お声が濁るんですもの。あなたのお声は、とっても綺麗」
 突如として、体が震えた。
 すわ地割れかと、両手にギュウと力が入る。
 身構えたところで、物凄い音量が隣から響いた。
「グ……ゥワッハッハー」
 ひゃぁと娘は小さく叫んだが、誰の耳にも届くまい。むしろこれで地が割れるのではというほどの声量は、隣の大男の笑い声だった。
 ひとしきり笑った男は、笑い疲れたのか、ふぅと息をつく。娘の前髪が揺れた。
「……このダミ声が綺麗だとは、変わったお姫様だ」
「心の綺麗な方に貰われたわたくしは、とっても幸運」
「それはこちらの台詞」
 軽やかに娘は笑った。
 その美声は、今度はそよ風のように隊列を流れていった。



「寄り道するぞ」
 将軍の一声で、一行は行路をそれた。
 向かった先は花畑、樹木が育たない高地だからこその幻想的な光景だ。
(できるものなら、見せてやりたいが)
 しかし、馬から降りた姫は嬉しそうに駆け出して、侍女を手こずらせている。意外とお転婆のようだ。
 周囲では、従者や馬たちが自然と大きな円を描いている。その中央で不規則に走り回る姫君はさながら天女、こちらは観客のようだ。しばし見蕩れる。
 しばらく走れば疲れて、馬車でも眠れるようになるだろう。
 将軍は胡座をかくと、手慰みにポキリと傍らの花を手折った。
 鈴を転がすような声を出しながら、鞠のように跳ねて姫がやって来たのは、間もなくだった。将軍の予想通り、今しがたの駆けっこだけで息が跳ねている。
「閣下はこちら?」
「ああ、ここだ」
 何が楽しいのか、クスクス笑っている。
「こちらに座っても?」
「ああ」
 姫は驚くほど正確に、己の拳ひとつぶん開けて、正面に座った。
「姫君に、これを差し上げよう」
「まあ、なんですの?」
 両膝で揃えられた白百合のような手の上に、将軍は花冠を置いた。
「もしかして……花かんむり?」
「ああ」
「あなたがお作りになったの?」
「むさくるしいジジイに似つかわしくないが、そうだ」
「器用なのね」
 姫は、指先で丹念に花冠をなぞり、笑みを深めた。
「将軍という方は、皆さま花かんむりまで作れるの?」
「ハッハ、いやいや、これは母上から教わったんだ」
「まあ、素敵」
「こう見えて、手先は器用でな。よくこうして母上に差し上げたものだ」
「お母様も、さぞお喜びになったでしょう」
 姫は、花冠を自らの頭に載せた。
「お母様も、こうしてお飾りになった?」
「……いや」
 姫のあまりに無垢な問いに、思わずそうだと答えそうになったが、現実は違う。
 母親は、線の細い人だった。体だけでなく心まで繊細で、図体ばかり大きくなる息子が自分の腹からでてきたものとは、次第に思えなくなってしまったようだった。
 それでも幼い頃は、一緒に野遊びもした。だから、花冠だって作れる。
 あの頃は、母に好かれようと女こどものする遊びや手習いは一通り習得した。
 ふっと湧いた過去の暗い沼に囚われそうになったとき、湖面なような輝きを見た。
(そうだ。これは湖の色だ)
 北国にあまたある澄んだ湖の水面こそ、姫の瞳の色だった。
 静かにたゆたう湖面に臨んだごとく、将軍は心身の静寂を取り戻した。
「熊のような大男だと、恐れられてしまったからな」
「まぁ、わたくしは怖くありませんよ」
 冗談にした過去を、大真面目に否定してくれる。
 首をブンブン振ったせいでずり落ちそうになった花冠を、将軍は太い指先で持ち上げた。
「……お前さんがしてくれたから、良かった。よく似合う」
 それに気づいた姫も手を伸ばすので、自ずと指先が触れ合った。
「ありがとう。わたくし、こんなに素敵な贈り物は初めてよ」
「そりゃあいい」
 花冠は頭上に戻ったが、姫の膝に戻った指先は、なぜだか離れない。手遊びなのか、姫の細い指が、皺の深い老将の手の上を踊るように跳ねる。
「……しかし、城に着いたなら、何か用意させよう。王妃様のようなティアラとはいかないがな」
「わたくしは、宝石よりお花の方が好き。良い香りがするもの」
 姫君は花冠を鼻先に持ってきて、すうっと息を吸った。
「ほらね!」
 眩い笑顔に圧倒されながら、将軍は応えた。
「だったら、披露宴には花を飾らせよう」
「嬉しい!」
 花冠を頭に戻してやるのを機に、将軍は姫の指を離した。
 その笑顔こそが花だと、大男には似合わぬ感傷は、単なる若さへの憧憬だと言い聞かせなくてはならなかった。