1832年
それは、新緑が目に鮮やかな5月。
ホーフブルク宮殿ではひとりのアジア人女性が男性用の三つ揃いに身を包み、バタバタと忙しそうに廊下を駆けていた。
「ツグミ」と声をかけてきたのは、ひとりのイギリス人男性である。
「出発は明日か」
「はい、明日の昼に宮殿を発ちます」
「そうか。グレイ首相によろしく伝えてくれ」
一礼して去っていくツグミに和やかに手を振るのは、駐オーストリアのイギリス大使、ウィリアム・ラムだった。のちのイギリス首相である。
ここ一年、仕事上でのツグミの対人関係は宮廷関係者よりも各国の大使に集中している。
というもの、三ヶ月前にゾフィー大公妃の秘書官からオーストリア帝国外交官へと職が変わったからである。
――最高のボスに仕える秘書になりたい。それがこの時代に来たときから……いや、日本にいた頃からのツグミの夢だ。
ヨーロッパの政治の中心ともいえるこのウィーンで、ツグミはその頂点を目指そうとしている。そのためには大公妃の秘書官長などという地位に甘んじていてはいけない。それはボスであるゾフィーも同じ考えであった。
『ツグミ。あなた来月から外交官におなりなさい』と命じたのはゾフィーだった。ツグミには彼女の描く未来の道筋が見える。
ゾフィーの息子、そして未来の皇帝マクシミリアン。ゾフィーは息子を皇帝として大いに盛り立て、その裏で宮廷の、オーストリアの実権を握るだろう。そんな母子を支える存在になるのが――宰相だ。
それは、フランツ一世皇帝の治世になくてはならない相棒のメッテルニヒ宰相のように。
外交官として諸外国の空気を肌で感じ、各国との繋がりを持つこと。その後は外務大臣としてオーストリア帝国の外交を牛耳る存在となり、ゆくゆくは宰相として国を支える大きな柱となる。
その道程はまさしく名宰相メッテルニヒの辿って来た道であった。


