13.
どうやら機嫌は直ったのだろう、と湖山は思っていた。久しぶりに、そして当然のようにふたりで帰路に着いた。昭栄出版の応接室を出てから多分一度も口を利かなかったけれど、それでもふたりの足は「どうする?」という戸惑いの欠片のひとつもなく粛々とこの部屋へ向かったのだ。玄関のドアを開けて、シャワー…と言い掛けたその時にはもう湖山は大沢に捕まっていた。貪るという言葉が思い浮かんだ。悪くない。だから湖山は「そうか、こいつはやっぱり機嫌が悪かったんだ。」その理由を自分を抱けなかったからだと考えた。単純な男だなとも思った。思い返せば大沢の機嫌が悪くなったのは、保坂と飲みに行った日からなのだ。たかが同級生が大沢の知らない湖山との思い出話に花を咲かせたからと言ってヤキモチを焼くほどのことだろうか。そしてその考えは本当に少しも悪い気分ではない。
十も若くたってあんだけ張り切ればそりゃぁ疲れるだろう。疲労感の見える大沢を横目に卵を割る。今日はいい日になりそうだ、と思った。二つの卵の黄身が綺麗に、微笑むようにフライパンの上でぷるりと震える。
そんなことよりもこの腰だ。
* * *
『昼飯一緒に食おうぜ』という噴出しの下には大きなハンバーガーセットのイラストがあった。「いい年して」とつぶやいて「通話」をおした。呼び出し音は二度も鳴らずに編集室のざわめきとともに「後で折り返すー」という怒鳴り声が聞こえた。湖山はおっと!と急いで電話を切ったがすぐに掛かってきた電話で保坂は
「なぁんで切るんだよー!」
などと言う。
「え?折り返すって言ってたから忙しいのかと思って」
「それはこっちじゃない、あっち。」
「あれとかそれとか、じじいだな。」
「思い込みが激しいのもじじいだぞ」
「でもあの場合は…」
「俺はいつだってお前が優先!まぁいいよ、昼飯の話だろ?ユウジン、今日の予定は?昼ぐらいってどこにいるの?お前に合わせるから。」
「あぁ、えっと…」
ざっくりと予定を伝えると電話の向こうで保坂は「それじゃぁ…」と待ち合わせの時間と場所を指定した。「お前、慣れてんなぁ」と思ったことがつい口にでる。
「こういう仕事だからね。じゃ、11時にな。」
終了ボタンを押すまでもなく電話は切れて湖山はスマートフォンを片手に通路を戻った。事務所の前の人影が大沢だと気づいたとき、大沢は少し会釈をするようにして事務所へ入って行った。他人行儀な仕草だけれど事務所ではよくあることだ。湖山はスマートホンをパンツの尻ポケットに入れて足を速めた。
* * *
「てててて…」
階段と言うほどでもない10センチやそこらのステップだったが、ちょっとした体勢で腰が痛んだ。湖山のほんの一歩後ろにいた保坂は訝しげに湖山を見て、それから大きな声で笑った。
「じじいって、やっぱお前のほうじゃねえか。機材重いんだろ。貸せよ」
「や、違・・・」
「何が違うんだよ、ほら、貸せって」
「いや、だから違うんだって。これは、その…」
保坂は荷物を奪うように持って先に行ってしまった。所在ない手をぶらりと下げて保坂の後に続く。大きなたて看板に今日のオススメメニューがイタリア語だかフランス語だかで書かれていた。湖山はちらりとそれを見て先に店内に入っていく保坂を追った。
「なんか洒落た店だな」
と湖山はできるだけそっと周りを見回した。
「意外~、みたいな顔しやがって」
「はは…そうじゃねえけど、ハンバーガーじゃなくて良かったよ」
「ハンバーガー?なんで?俺、ハンバーガー好きなイメージ?そりゃあ金がない高校生の頃はな。」
「そうじゃなくて、LINEのスタンプ?っての?あれが…」
「あぁ、あれか」
と保坂はどうでもよさそうに頷いた。フランス語の下の小さな日本語を目で追う。よく分からない、そう思ったとき、保坂がメニューを人差し指でトントンと叩き、目を落としたまま
「腰、大丈夫?」
と湖山に尋ねた。蒸し返されると思ってもいなかった湖山は面食らいつつも「あぁ」となんでもないのを装って答えた。保坂は顔を上げて湖山を見てまたメニューに目を戻した。
「大沢くんは今日は?」
「え…?は?なに、なんで?」
「なんだよ、ユウジンどうしたの、大丈夫か?」
「や、急に大沢の話なんかするからびっくりして」
「・・・なにかおかしいか?だっていつもマネージャーさんみたいにくっついているじゃないか。ユウジンのアシスタントなんだろ?今日は一緒じゃないの?」
「あー、あぁ、そう…。そうか、うん、あいつも最近はアシスタントばかりじゃなくて…」
「なぁ、何でもいい?このコースってちょっと気になるんだよ。おまえもこれでいい?」
「おまえ、相変わらず人の話聞かないやつだな」
「聞いてるよ。大沢くんはお前のアシスタントについているばかりじゃない。いつも一緒って訳じゃない。」
保坂は少し間を置いて「そう言ったんだろ?」と湖山の目を見て(ほら、聞いてたろ?)とでも言うように得意気に言った。
「あぁ、うん。」
何か大事なことが置き去りにされているような気がする。でもそれは湖山だけが感じていることのはずだった。高校時代からの友人に伝えていない何かがそこにあると自分だけが知っているから。
「…る?おい、ユウジン、なぁ、なんにする?」
「え?だからコースだろ?」
「そうじゃなくて、飲み物だよ。昼間からワインなんか飲まないだろ?飲むなら付き合うよ、もちろん。」
「あぁ、あー…じゃぁー…アイスティー、にするかな。」
「食前?食後? あ、すみません、こっち」
「しょく・・・」
「コースふたつと、ユウジンどっち、前?後?」
「・・・どっちでもいい」
「どっちでも?じゃぁ・・・前でもいい?」
「いいよ。」
「アイスティーとアイスコーヒー、食前に。はいそう、どうも。──なぁ、もし時間があったらその先で食後の珈琲を飲んでいこう。もちろん食後の紅茶でもいい」
それから週末の予定を決める。ぐいぐいと引っ張るように予定を決めていくけれどけして強引すぎるわけでもなかった。旧知の仲だからなのか、どこはどうやって勝手に進めてもいいか(進めてもらったほうがいいのか、とも言うかもしれない)どういうところは湖山が気になるのか、保坂はよく分かっているのだろう。『こういう仕事だからね』と保坂は言っていた。ひとつのものを作り上げるときに多くの人が関わり、それぞれの人と深く関わらなければできない仕事だ。そしてそんないろんな人達の足並みを綺麗にそろえて最後にひとつのものを作り上げる、そのトップに立つ人間だからなのか。そうなのかもしれないと思う。
自分にはできない。自分にできるのは自分に与えられたことを納得の行く形で仕上げる、ということだけだ。そのために妥協したくないこともあるし、その出来ひとつで一喜一憂したりする。それ以外のことは割とどうでもいい。だから彼女がいた時も言われるままにデートをしたし、大体いつも「なんでもいいよ」と言うから「あたしのことだって『なんでもいい』んでしょ!?」などと言われたりした。そういえばふられる理由っていつもそれだったような気がする。
アイスコーヒーをストローを使わずにあおった保坂の喉仏がワイシャツのカラーの上で上下した。
「お前、モテそうだなぁ」
と湖山が思ったまま言うと、保坂は
「そう思う?」
と言って笑った。
どうやら機嫌は直ったのだろう、と湖山は思っていた。久しぶりに、そして当然のようにふたりで帰路に着いた。昭栄出版の応接室を出てから多分一度も口を利かなかったけれど、それでもふたりの足は「どうする?」という戸惑いの欠片のひとつもなく粛々とこの部屋へ向かったのだ。玄関のドアを開けて、シャワー…と言い掛けたその時にはもう湖山は大沢に捕まっていた。貪るという言葉が思い浮かんだ。悪くない。だから湖山は「そうか、こいつはやっぱり機嫌が悪かったんだ。」その理由を自分を抱けなかったからだと考えた。単純な男だなとも思った。思い返せば大沢の機嫌が悪くなったのは、保坂と飲みに行った日からなのだ。たかが同級生が大沢の知らない湖山との思い出話に花を咲かせたからと言ってヤキモチを焼くほどのことだろうか。そしてその考えは本当に少しも悪い気分ではない。
十も若くたってあんだけ張り切ればそりゃぁ疲れるだろう。疲労感の見える大沢を横目に卵を割る。今日はいい日になりそうだ、と思った。二つの卵の黄身が綺麗に、微笑むようにフライパンの上でぷるりと震える。
そんなことよりもこの腰だ。
* * *
『昼飯一緒に食おうぜ』という噴出しの下には大きなハンバーガーセットのイラストがあった。「いい年して」とつぶやいて「通話」をおした。呼び出し音は二度も鳴らずに編集室のざわめきとともに「後で折り返すー」という怒鳴り声が聞こえた。湖山はおっと!と急いで電話を切ったがすぐに掛かってきた電話で保坂は
「なぁんで切るんだよー!」
などと言う。
「え?折り返すって言ってたから忙しいのかと思って」
「それはこっちじゃない、あっち。」
「あれとかそれとか、じじいだな。」
「思い込みが激しいのもじじいだぞ」
「でもあの場合は…」
「俺はいつだってお前が優先!まぁいいよ、昼飯の話だろ?ユウジン、今日の予定は?昼ぐらいってどこにいるの?お前に合わせるから。」
「あぁ、えっと…」
ざっくりと予定を伝えると電話の向こうで保坂は「それじゃぁ…」と待ち合わせの時間と場所を指定した。「お前、慣れてんなぁ」と思ったことがつい口にでる。
「こういう仕事だからね。じゃ、11時にな。」
終了ボタンを押すまでもなく電話は切れて湖山はスマートフォンを片手に通路を戻った。事務所の前の人影が大沢だと気づいたとき、大沢は少し会釈をするようにして事務所へ入って行った。他人行儀な仕草だけれど事務所ではよくあることだ。湖山はスマートホンをパンツの尻ポケットに入れて足を速めた。
* * *
「てててて…」
階段と言うほどでもない10センチやそこらのステップだったが、ちょっとした体勢で腰が痛んだ。湖山のほんの一歩後ろにいた保坂は訝しげに湖山を見て、それから大きな声で笑った。
「じじいって、やっぱお前のほうじゃねえか。機材重いんだろ。貸せよ」
「や、違・・・」
「何が違うんだよ、ほら、貸せって」
「いや、だから違うんだって。これは、その…」
保坂は荷物を奪うように持って先に行ってしまった。所在ない手をぶらりと下げて保坂の後に続く。大きなたて看板に今日のオススメメニューがイタリア語だかフランス語だかで書かれていた。湖山はちらりとそれを見て先に店内に入っていく保坂を追った。
「なんか洒落た店だな」
と湖山はできるだけそっと周りを見回した。
「意外~、みたいな顔しやがって」
「はは…そうじゃねえけど、ハンバーガーじゃなくて良かったよ」
「ハンバーガー?なんで?俺、ハンバーガー好きなイメージ?そりゃあ金がない高校生の頃はな。」
「そうじゃなくて、LINEのスタンプ?っての?あれが…」
「あぁ、あれか」
と保坂はどうでもよさそうに頷いた。フランス語の下の小さな日本語を目で追う。よく分からない、そう思ったとき、保坂がメニューを人差し指でトントンと叩き、目を落としたまま
「腰、大丈夫?」
と湖山に尋ねた。蒸し返されると思ってもいなかった湖山は面食らいつつも「あぁ」となんでもないのを装って答えた。保坂は顔を上げて湖山を見てまたメニューに目を戻した。
「大沢くんは今日は?」
「え…?は?なに、なんで?」
「なんだよ、ユウジンどうしたの、大丈夫か?」
「や、急に大沢の話なんかするからびっくりして」
「・・・なにかおかしいか?だっていつもマネージャーさんみたいにくっついているじゃないか。ユウジンのアシスタントなんだろ?今日は一緒じゃないの?」
「あー、あぁ、そう…。そうか、うん、あいつも最近はアシスタントばかりじゃなくて…」
「なぁ、何でもいい?このコースってちょっと気になるんだよ。おまえもこれでいい?」
「おまえ、相変わらず人の話聞かないやつだな」
「聞いてるよ。大沢くんはお前のアシスタントについているばかりじゃない。いつも一緒って訳じゃない。」
保坂は少し間を置いて「そう言ったんだろ?」と湖山の目を見て(ほら、聞いてたろ?)とでも言うように得意気に言った。
「あぁ、うん。」
何か大事なことが置き去りにされているような気がする。でもそれは湖山だけが感じていることのはずだった。高校時代からの友人に伝えていない何かがそこにあると自分だけが知っているから。
「…る?おい、ユウジン、なぁ、なんにする?」
「え?だからコースだろ?」
「そうじゃなくて、飲み物だよ。昼間からワインなんか飲まないだろ?飲むなら付き合うよ、もちろん。」
「あぁ、あー…じゃぁー…アイスティー、にするかな。」
「食前?食後? あ、すみません、こっち」
「しょく・・・」
「コースふたつと、ユウジンどっち、前?後?」
「・・・どっちでもいい」
「どっちでも?じゃぁ・・・前でもいい?」
「いいよ。」
「アイスティーとアイスコーヒー、食前に。はいそう、どうも。──なぁ、もし時間があったらその先で食後の珈琲を飲んでいこう。もちろん食後の紅茶でもいい」
それから週末の予定を決める。ぐいぐいと引っ張るように予定を決めていくけれどけして強引すぎるわけでもなかった。旧知の仲だからなのか、どこはどうやって勝手に進めてもいいか(進めてもらったほうがいいのか、とも言うかもしれない)どういうところは湖山が気になるのか、保坂はよく分かっているのだろう。『こういう仕事だからね』と保坂は言っていた。ひとつのものを作り上げるときに多くの人が関わり、それぞれの人と深く関わらなければできない仕事だ。そしてそんないろんな人達の足並みを綺麗にそろえて最後にひとつのものを作り上げる、そのトップに立つ人間だからなのか。そうなのかもしれないと思う。
自分にはできない。自分にできるのは自分に与えられたことを納得の行く形で仕上げる、ということだけだ。そのために妥協したくないこともあるし、その出来ひとつで一喜一憂したりする。それ以外のことは割とどうでもいい。だから彼女がいた時も言われるままにデートをしたし、大体いつも「なんでもいいよ」と言うから「あたしのことだって『なんでもいい』んでしょ!?」などと言われたりした。そういえばふられる理由っていつもそれだったような気がする。
アイスコーヒーをストローを使わずにあおった保坂の喉仏がワイシャツのカラーの上で上下した。
「お前、モテそうだなぁ」
と湖山が思ったまま言うと、保坂は
「そう思う?」
と言って笑った。


