水性のピリオド.



お店を出てからも舌に残る余韻を閉じ込めてゆっくりと下していくみたいに惚けていると、前を歩く岩井くんが立ち止まる。


「家、来る?」


背中を向けたまま言うから、岩井くんがどんな顔をしているのかわからない。

抑揚のない声のトーンはぶっきらぼうだけど、冷たくはなかった。


頷いても岩井くんからは見えない。

ちゃんと、声に出して答えなきゃいけない。


「……行く」


妙な間を作ってしまったところを突かれはしないかと身構えていたら、岩井くんが振り向いた。

びくりと体が跳ねたことも見ないフリをしてくれた岩井くんが差し出す手に自分の手を重ねると力強く握ってくれた。


来た道を戻って、カフェの前も通り過ぎる。

道中は何も話せなかった。

ただ、落ち着かない心臓を落ち着かせて、行き場のない緊張に乱れそうになる歩みを拗らせないことに必死だった。


マンションのエレベーターに乗るときも、降りるときも、岩井くんがズボンのポケットから鍵を取り出して開ける間も、ずっと手を繋いでいた。

逃げ出す気なんてないし、岩井くんもわたしが逃げるとは思っていないだろうし、そういうつもりで繋いでいたわけでもないんだろうけど、他に理由が見当たらなかった。


嗅いだことのない匂いのするベッドに腰を下ろしてから、繋いでいた手が離れた。

一度部屋を出て行くでも、上着を脱ぐでもなく、離れた手は体をなぞるようにして背中に行き着く。


不思議な高揚感に包まれていた。

脳裏に浮かぶ春乃くんの姿、顔、仕草、声を追い払おうとはせずに、頭の隅に置いたまま、岩井くんに縋った。


忘れられなくなりそうだから、見ない方がいいとは思ったのだけれど、行為の最中に何度も岩井くんの目を見た。

そのたびに大きな手のひらで覆われるから、どんな表情をしていたのかはわからないまま。


静かな時間が流れる。

ジャズの音色もアロマの香りもないけど、静かで穏やかで、きっと相手が岩井くんだからこんな時間を過ごせたんだと思う。