彼は、岩井 翔 と名乗った。
市街地の外れにある進学校に通うひとつ年上の先輩。
屋内に移動して話を聞こうか、と言われたけど、杏ちゃんと叶人くんがすれ違ってしまったら困るから、壁沿いにふたりで並ぶ。
クリーニング後のパキリとしたブレザーに苔がつかないように、力の入らない足を奮い立て、壁には背を凭れない。
春乃くんとのことをいくつか掻い摘んで話していくと、岩井先輩は呆れ交じりの吐息をこぼした。
「まあ、保留にするってのは悪くねえと思うけど、なんで俺にそんなこと頼むんだよ」
そんなこと、というのは一週間の期限を定めてのお付き合いのこと。
改めて言われると顔から火を吹きそうになる。
「わたし、男の人と付き合ったことがなくて」
「それで?」
「春乃くんがぜんぶはじめてになるのって、ちょっと、こわいんです」
本当は、嬉しいことなのかもしれない。
自分の価値観と貞操観念の基準を知ろうとしてこなかったことへの報復のようにも思える。
「おまえ、それ絶対後悔するぞ」
「かもしれません」
「悪いことは言わないから、一晩寝て起きてそれからもういっぺん考え直せ。そうしたら、このことは俺も忘れる」
「いやですか?」
「いや、じゃなくて。おまえちょっと混乱してるんだよ」
岩井先輩の言うことはすべて正しかった。
的を得ると同時にわたしの心にまで刺さって、抜けない。
「一週間でおまえ、どこまで行きたいわけ」
「処女喪失まで」
「しょ……それ、絶対他所で言うなよ」
ようやく、岩井先輩が狼狽した。
裏返った声は瞬時に元に戻ったし、ほんと一瞬だったけど。
「……本気か?」
「はい」
「はあ……」
深い、深いため息。
白い吐息の筋が空へと昇っていった。
乱暴に頭を掻きむしった岩井先輩はもう一度深い息をつく。
それはもう、呆れだとかそんなのではなくて、何かを決意したような、観念したような響きで。
「わかったよ」
髪の右部分だけがぐしゃぐしゃに乱れている。
先輩は首を擡げてわたしの顔を覗き込んだ。
その目は春乃くんみたいに揺らがない。
「ひとつだけ。明日の朝、嫌になってたらちゃんと言え」
「はい」
「それから、悪いけど一週間過ぎたら一切関わらないでくれ。俺もおまえに関わらない」
「はい」
「本当にいいんだな」
たぶん、これが最後の確認。
一度でも瞬きをしたり、岩井先輩の瞳から逃れたら、春乃くんが浮かんでしまう。
耳に残る 好き の二文字をかき消して、縦にひとつ頷いた。



