そう、ちゃんと、涙は自分で拭ってね。
襟ぐりを引っ張りあげて目元を乱暴に拭うと、春乃くんは急いでカバンから携帯を取り出した。
そんなに急がなくても、やっぱりナシとか言わないのに。
携帯を持ち構えてそわそわしてる春乃くんに意地悪をすることなく、お互いの画面を共有して連絡先を交換。
しっかりと名前で登録し終えたとき、春乃くんと目が合う。
どうやら、わたしが漢字で春乃くんの名前を打ち込む手元を覗いていたらしい。
中津 春乃。
合ってるよね。間違ってないよね。
不安になりながら、わたしも春乃くんを見つめ返す。
「おれの名前、特別みたい」
「普通だよ」
「先輩だからかな」
それ、本気の素で言ってるとしたら、ちょっとこわいな。
まじまじと春乃くんを見るわたしの表情がよほど奇妙なものでも見つけたようなものだったのか、別の言葉を探してどもりはじめた。
「あ、えと、ちがう。そうじゃなくて、あの……」
結局、ちゃんと別の形に変わって出直してくるでもなく、なあなあになった。
言葉が見つかってから話していいんだよ。
わたしは出会ってから、一度も急かしていないつもりなのだけど、言外にそう感じさせているのならごめんね。
「変なこと言いますね」
「うん、どうぞ」
少しだけ、何を言い出すのか楽しみだった。
突飛なことか、説明がないと理解できないようなことか、くだらないことか、どれだろう。
わたしは立ったまま春乃くんの目鼻先に手を伸ばしていて、春乃くんは階段に座ったまま。
なんだか、傅かれているみたいだ。
「昨夜帰ってから寝付くまでずっと、先輩の言ってたことが頭から消えなくて、だからおれ逃げるのやめて考えてみたんです」
「逃げ……?」
「忘れようとするのを、諦めたっていうか……ちゃんと、どうしてこんなに頭と耳に残ってるのか考えようと思って」
これ、続く言葉がいくつか予想できる。
そのうちのほとんどは、春乃くんが顔を真っ赤にしそうなことだと思ったのに、当人の顔のパーツで赤いのは眼球だけだ。
さっきまで泣いていた男の子とは思えないほど、真面目な顔つきをしている。
「嬉しかったんです、すごく。もうきっと校内には誰もいないから、普段しないことをしたかった。先輩がいるって気づいたとき、おれすげえ恥ずかしいって思ったのに、先輩が言ったのは……」
「『かっこいい』だっけ」
「ちょっとちがう……かっこいいね、です」
たったの一文字のちがい。
だけど、春乃くんにとっては特別だったんだろう。
伝えた側には、伝えられた側の気持ちがわからない。
受け取り方なんて人それぞれで、わたしは昨日それを言ったとき『ああ、しまったなあ』なんて思ったくらいだから。
まさか、春乃くんの半日を独占してしまうとは思いもよらなかった。



