「…俺さ、元々母親がいないんだよ」
ベッドの縁に2人で座った。
2人しかいない孤立した世界で。
翔はどこか思い出すように儚く天井を見上げていた。
「いない?」
「俺を産んで死んだんだ」
翔はそう言ってにこりと笑った。
だけど儚くて、やっぱり大切な存在なのだと、分かった。
「父さんは母さんが本当に好きでさ。大好きだったんだって。酔うと、母さんの話ばっかする」
呆れたのか、どうなのか。
彼の表情から、全てはわからないけれど。
だけどその中の優しい思い出が、多分やっぱり翔を支えているんだ。
「年々顔が似るんだと。…どーして、似てる存在を殴るんだろうね。俺は今でもわかんないんだよ」
目を閉じて、そこから僅かに流れた涙をあたしは決して見逃さなかった。
「俺は逃げなきゃいけなかったんだ。でも、この可哀想な人を置いてもいけなくて。そう思ってたある日さ、学校から帰って来たら父さん泣いてるの。何の日かと思ったら、命日だった」
翔が笑った。
笑ったまま、泣き出した。
“母さんが死んだ日は、おれの誕生日なんだよ”
「父さん泣きながら、言ったんだよ。お前じゃなくて、母さんを、あいつを選べばよかったって。俺に言う言葉じゃないよなあ。何度も殴られても、この家族を見捨てられなかったけどさ。心が死んだのは、あの日だよ」
想像したくなかった。
親から要らないと言われる事ほど、残酷なものはないだろう。
「極め付きにはさ、お前なんか産まれなきゃよかったってさ」
じゃあ、産ませんなよ、つくんなよ。
俺の望みは、いつだって、あいつがこの世からいなくなってくれることだよ。
「俺、ほんとにもう嫌になって。このまま死んじまおうかな、なんて思ってたらさ。ほんと、たまたま、仁と出会って」
翔は懐かしそうに目を細める。
「…俺に着いてこいって、言って。ボロボロの俺を倉庫に連れてってくれたんだ。懐かしいよ、もうここに来て何年になるかな」
彼はそう笑うけれど。
細めた目の奥はやっぱり暗くて。
昔のあたしみたいにまだ過去を引きずって、生きていた。
「…翔は、この倉庫が大切な居場所なのね」
「そうだよ。だから、和佳菜が現れた時だって仁はまた人を救おうとしてるんだくらいに思ってた。まさか和佳菜を、さ」
彼は情けなさそうに眉を寄せて。
「こんなに大事な仲間だって思う日が来るなんて考えられなかった」
彼の中の感情は多分一つじゃないんだ。
記憶を飛ばす程あたしに怒りを抱いていた翔も。
こんなに優しくあたしを見つめる翔も。
全部本物で。
全てが彼の感情なんだ。
翔の涙は止まらない。
話させてしまった罪悪感と、その痛みに寄り添えた優越感と。
両方が、あたしの心に棲みついた。
「なあ、和佳菜。お前なら助けてくれる?」
その時、急に。
あたしは答えを迫られた。
「…え?」
「俺のこと、助けてくれる?」
懇願した目。
揺れて、今にも零れ落ちそうな涙。
あたしの両手を掴んで。
挟み込むように、祈るように。
あたしに願う。
そうか、そうね。
苦しいのね、分かるわ、その気持ち。
だってあたしもすごく苦しかった。
マークに裏切られて、苦しかった。
その痛みを持ったから言えることは。
「あたしは、貴方を救うことはできない」
たったひとつの現実だった。



