ケーキの断面から毒々しい紅のソースが滑り出る。その禍々しい雫は銀色の皿へ、それはそれはもったいぶったスピードでこぼれ落ち、ひしゃげた体躯がいっそ淫らに乱れて、純白の肌に毒紅のスカートを垂らし誘う。崩れたケーキは世界一美しくエロティカルだ。

甘くて美味しいお菓子を幾ら食べても飽き足らず、好きが大きく横に間延びして、物心がつくより先に、学校へ通うより先に、男性と恋に落ちるより先に、なにより私はお菓子を愛していた。

小学5年生の、ソフトクリームの天辺こそが世界一の頂点だと思った、夏。
それは地球上の山を全て登りきった登山家ですら、海の果てまで行き着いた冒険家ですら、悟りきったブッダにも、復活を遂げたばかりのイエスキリストにだって、無理なこと。
私でこそ、私でなければ旗を立たせることができない。私こそが神をも上回るソフトクリームの頂に足跡を残すことが出来る。
そう思い込んだ果て。この世の全てのソフトクリームの頂を、いつか近い未来には世界征服を決意した。

「あゆみは、パティシエにならないの?」

親友のカナエは、小首を傾げて小鳥のように可愛い出で立ちで私にそんなことを訪ねた。

「お菓子は食べるのが好きなんだもん」

ソフトクリームの食べ過ぎで腹痛と下痢に悩まされ、布団に無理くり寝かしつけられ、学校へも洋菓子店へも和菓子店へも行けずに居た私が答えると、カナエは大きなため息を吐いた。白いワンピースが似合うオンナノコなカナエが大人びた口調でそのあと放った言葉は、26歳になった今でもため息とセットで言われ続けている。

「あゆみって、バッカだねえ、ほんと」

ところで、私の職場は高円寺にある煉瓦造りのレトロな純喫茶だ。少し太った銀髪の未亡人が、亡くなったご主人のお店を受け継ぎ一人で切り盛りしていた。
「おはようございます」
その日、エプロンを新調して、気分はマカロンのように浮ついていた。
というのも、贔屓にしていた青山のチョコレイトショップで、なんと新作が出るニュースを見聞きした直後だった。
パステルカラーの心地で注文を繰り返し、滲み出るクリームの足元で、銀のトレイをうっかりひっくり返してしまった。

繰り返した注文内容は、ストロベリーショートケーキ。床に落としたトレイをめくれば、ケーキが崩れ露わになった姿が私の世界を占めた。
その時、私の脳内では確実にストロベリーショートケーキが腰をうねり突き出しぽってりとした唇で誘っていたし、未亡人が私に怒鳴る声も届かないで居たくらいには、彼女の魅惑の指先によって現実をシャットアウトされていた。

カウンター裏で、そんな言い訳をした。
一人、二人とお会計を申し出る客に、頭を下げて対応をする。
未亡人は無言で怒りの眼差しを私に送り続けた。
一人の男性客を残した店内には、どこにもマカロンのパステルカラーは見当たらない、どころかショートケーキの香りすらせず、今度は現実の檻に閉じ込められた。
意気消沈した私に、未亡人はついに言い放った。
「桜山さん、それ、片付けたら帰っていいわよ。何度もこんなことがあると、困るわ。悪いけど、もう来ないでちょうだい」

昔から、お菓子のことでイメージを脳内で再生し始めたら夢中になって、私はいつも損をする。
だけど、でも。
お菓子がこの世になかったら、とっくに死んでいた。
甘くて、軽くて、美しい、愛くるしい、溶ろけて、楽しくて、可愛くて幸せのケーキ、チョコレイト、アイスクリーム、パフェ、ブリュレ、甘い甘い甘いet cetera......

歩道橋の真ん中で、私は泣いた。
お菓子を食べて死ねたら、本望だ。
そうだ。
たとえば、毒を盛ったケーキなんかはどうだろうか。
甘くてくるしいクリームに、毒を一滴、熟れたフルーツをめいいっぱいデコレーションした、毒盛りホールケーキを、銀のフォークで突き立てて、差し込んで、好きなだけ弄り回して、乱雑に、そして舐め尽くす。
......けれど、私はパティシエでもなければ、毒を使いこなす魔女でもない。
それに、自分で作った毒のケーキを自ら食して死ぬなんて、どこか寂しい。
どうしよう、死ねない。

私がそこまで考えを巡らせていた時だった。
彼が階段をものすごい勢いで駆け上がって来た。
「あの、さっくら...まさん」
息が上がった彼の声の中で、私の名前が踊り過ぎて、自分のものだと一瞬間わからなかった。彼は太っていたし、歩道橋は案外高さのある階段で造られていた。

「まんですは」
私は泣き過ぎて、言葉を発するのが難しく、なんですか、という日本語が崩れたが、彼は気にも留めない様子で、息を整えていた。すう、はあ、すう、はあ。深呼吸だ、小学生の頃に習った通りに腕を動かし鼻から息を吸い込み、胸を反らしている。なんだこいつは。

「先ほど、ケーキを落とした、桜山さんですよね」
息が整った彼の発言はすんなり綺麗な日本語になってしまい、私は思わず彼の太い脛を蹴り上げた。
「痛い! 」
「そうですね! 先ほど、ケーキを落として、クビになった、私です! 」
叫んだら、彼は困ったような痛いような表情になって(きっと実際に痛かっただろう、なにせヒールのパンプスを履いていた)私を見た。
「違うんです! 僕は、あなたがしていた言い訳が、なんだか、その、良いなって思ったんです! 良いな、って思ったんですよ、それだけです! 」
「何が良いの? 崩れたケーキに見惚れて、片付け忘れていたなんて」
「それが、奇遇なことに、僕もお菓子が大好きなんです......」

溶けて行く夕張メロンのラクトアイスのような夕日が、ビルを照らして街を染め上げ、空をゆくカラスは一羽で一声鳴いた。
アー。
そうか、この人も私と同じくして、崩れたケーキが乱れきった美女に見えるのか、そう思ったら目の前のこってりした彼が、頼もしい同志で、そしてそれに輪をかけて一気に気持ち悪く思えた。
「変態! 」
平手打ちをかまして、直ぐさまその場を離れた。遠くで、なんでー、と叫ぶ彼の声がしたが、知ったことか......今日は本当にツいていない。

「あゆみって、バッカだねえ、ほんと」

先日の出来事をカナエに広げて見せた。まあ、少しくらいは、言われる気がしていた。
「慰めてよ」
それでも、カナエの赤いソファの端で青いハートのビーズクッションを抱きしめて、彼女に甘えながら飲むココアは最上級に美味しいから、死ななくてよかったなあ、とぼんやり頭の先で思った。

「あのねえ、あゆみ。そのデブはどうでもいいとしても、あんた職を失ったんだよ。少しは焦ったらどう? クビになんかなって、親元に帰るつもり? おじちゃんもおばちゃんも、きっと悲しむよ。親が泣くところ、見たいわけ? だいたい、もう私たち、20代後半なんだからね。フリーターなんかいつまでもしていないで、きちんとした就職をして地に足を着けて、しっかり働いて自分の将来考えなさいよ」

「カナエ、おばあちゃんみたい」

そう言ったら、カナエはナマハゲのような形相になって、私を部屋から追い出し、極め付けには「就職するまで絶交! 」と言い残して重たいドアをしっかりと閉めてしまった、鍵の回る音と、チェーンまでかけている音がした。

安息のココアと赤いソファに青いハートは、冷たいコンクリートに打って変わって、仕方なくコートを着込み、私は立ち上がる。
カナエはなんだかんだ、そんな喧嘩を数年に一回は繰り返して、今に至った親友だ。
きっと、また笑って話せる時が来る。
そう信じてはいるものの、夜空を見上げたら鼻水が奥でツンとした痛みに変わるほどには、厳しい冬が憎たらしかった。
空を見上げながら歩いて帰った。
途中、私を人が避けて行くのが面白かった。

ムカデ荘アパートはカナエの女性専用マンションとはまるで違い、はっきり言ってぼろ家だ。
薄くて木の軋む音がするドアを開けると、なんだか、気が抜けた。
コートを脱いで、ふと、あの男の深呼吸を思い出した。
真似をしてみたら、馬鹿馬鹿しくて笑いが出た。
悪いことをしてしまったかな。
脛に蹴りを入れ、平手打ちまでしてしまった。
「あの人、何にも悪いことしてなかったのにね」
口に出してみると、本当に悪い気がしてきた。確かに、彼は追いかけてきて、なんだかわからないが私の言い訳を褒めてくれただけなのだ。
後悔に胸が痛み、しかしもうあれは昨日のことで、彼の名前すら知らないので、まあいいか、ともたげていた頭を左右に小さくふり、罪悪感をも振り払った。

翌日の朝、いつものように行きつけの喫茶店で、モーニングセットのクロックムッシュとダージリン、それから抹茶のロールケーキを注文しようとして、思いとどまった。
財布の中身が寂しかった。
「ごめんなさい」
早口で店員に謝って店を出れば、雪が降っていた。冷たいアスファルトは霜が降りていて、マフラーも手袋もしていた私の息は真っ白だった。

「どうしよう」
呟いてみたが、どうにもならなかった。
通りを行く人々は、自分の世界をそれぞれ持っていて、それに夢中で必死だ。
なんだか急に、スーツを着た人が羨ましく感じた。
私は、カナエの言う通り、バッカなのかなあ、ほんと。
足を動かして、人の流れに逆らって歩いた。
未亡人に謝り倒して、もう一度アルバイトをしよう。それがダメだったら、新しいアルバイトを探してみよう。それもダメだったら、私......何をしたらいいんだろう、何をしたら生きていけるんだろう、この街で。何をしたら、お菓子を食べていけるんだろう、死ぬまでの間。

私に何ができるんだろう。

しかし、たどり着いた煉瓦造りの純喫茶は、灰色のシャッターが閉まっていて、小さな張り紙が一枚貼ってあった。

【諸事情により閉店することとなりました。長い間ご贔屓頂き誠に有難うございます】

雪が強い風に乗って私の頬を叩いた。
じんわり涙が浮かんで来た。
突っ立って居たら、また、そこには彼が居た。

「桜山さん? 」

振り返ると、2人の男性と一緒に歩いて居た彼が私に一歩近寄って、

「よかった、また会えた」

と感動した面持ちで言った。横にいた男性二人のうち、赤いダウンを着た一人が、

「木森、この子知り合い? 」
と訪ね、木森と呼ばれた太った眼鏡の彼は、
「この喫茶店の元ウェイトレスさんだよ」
と揃えた指先で私を指し示した。
もう一人の長身で痩せ型の男性が、
「あー、ここ潰れちゃったんだ。おばさん、何かあったのかなあ」
と言ったので、純喫茶の常連だったことがわかる。そういえば、木森は私がクビになった日の最後まで残っていた男性客だったことを思い出す。
私は涙を拭って、頭を下げた。
「木森さん、先日は本当に申し訳ございませんでした」
木森は、驚いた顔をして、それから笑った。笑うと、肉まんを上から見た時のようになった。
「そういえば俺、蹴られて殴られたんだっけ。あー、思い出すと痛いなあ。......桜山さん、お願いがあるんだけど」
脅されているのだろうか。
「な、なんでしょう」
恐る恐る訊くと、木森は赤いダウンの彼から「すまん、メモ貸して」と小さなメモ帳を手に入れ、分厚い手でなにやら書き出した。
「おばさんに何かあったのか、知らないの? 」
長身の彼が私に言うが、首を横に振るしか出来ずにいると、赤いダウンの彼が、
「昼飯どうする? ナポリタン食べたかったのに、俺」
とぼやいた。
木森がメモを私に渡して、
「これ、俺の連絡先。登録お願いします! 」
と頭を大げさに下げた。え、まさかナンパ?
とりあえず木森からメモを受け取ろうと手を伸ばすと、その1センチ先にあるメモ用紙がわずかに震えていた。
かと思えば、受け取ったら直ぐさま顔を上げた木森が、

「ちなみに、この辺で美味しいナポリタンとケーキが食べられるお店、知らないかな? 」

と私に訊いたので、私は頭の中で数店舗のナポリタンとケーキが食べられる喫茶店と洋食屋を思い描いた。キッチンのないムカデ荘アパートに住んで数年、外食先は美味しいお菓子の置いてある場所ばかり通っていた。