千沙乃の横をすり抜けていく背中を、あ然として見送った。

千沙乃は恋愛に対してこれまで淡白だった。
いつも向こうから告白してくれたから、努力をしたこともない。
もちろん、「嫌だ」なんて正面切って言われたことなんて、ただの一度もなかった。

ガタついた引き戸の向こうにサックスブルーが消えていく。
閉まった戸を見て、感じたことのない衝動に駆られて店を飛び出した。
まだ近くにいた背中に飛びつき、皺がつくくらいそのシャツを強く握る。

「うわっ!」

ふいをつかれてぐらついた男の背に、千沙乃はまた顔をぶつけた。
さっき嗅いだばかりの匂いがふたたび肺にまで届く。
その背中に顔を埋めたまま、千沙乃は叫んだ。

「私の外見は努力の成果よ! だけどそれは上っ面しか見ない男を、ホイホイくっつけるためなんかじゃないの! あんただって私のこと何も知らないくせに、なんであそこまで言われなきゃいけないのよ!」

埋めた顔の向こうで、彼の肺が深く呼吸をした。

「別に想いに応えろって言ってるんじゃないんです。言い方ってものがあるでしょう? それに、逆上されたらどうするんですか?」

「……もしかして、助けようと思ってた?」

「何かあったら警察を呼ぶくらいはね。きれいなんだから、もっと気をつけないと」

「……え?」

憎い相手からの思いがけない言葉に顔を上げると、彼は振り返って千沙乃を見た。
今度はさっきよりずっと気まずそうに眉を下げている。

「言い過ぎたことは認めます。すみませんでした」

望んでいたはずの謝罪の言葉も、もう千沙乃の耳には届いていなかった。

「私のこと嫌だって言いましたよね?」

「さっきの態度はね」

「でもきれいだって思う?」

「まあ、普通に」

「だったら好きになるかもしれない?」

「うーん……その髪はいいですよね」

ふっとやわらいだ視線が、千沙乃の髪をつるりと撫でた。
「顔が好き」よりもっと浅い「髪はいい」。
数々聞き流した褒め言葉の中でも、ささいなものなのに、揺すぶられた感情の波間を通って、ことりと内側に落ちていった。

じゃあ失礼します、と背を向けた彼のシャツを再びぎゅっと握る。

「うわっ!」

「謝罪するつもりがあるなら連絡先教えてください」

「え……まさか、訴訟?」

「違います。ご飯奢ってくれるだけでいいです」

「えー! 嫌だよ」

「だったら、私がご馳走するから」

「急になに? 怖い!」

「怖くない! とにかく連絡先教えて!」

「お願いだからもう離してー」

押し問答の末、彼・前郷元輝が観念して書いてくれたメモを、ひらひら振り回しながら千沙乃は帰路についた。
もちろん、一度居酒屋に戻って、傷つけてしまった男子学生に謝罪することも忘れなかった。