(史跡・春日山城址)



 その年の秋だった。


 私はまたしても母に連れられ、姉と共に「おやかたさま」の居住する春日山城(かすがやまじょう)本丸へと出向いた。


 ちょうどその夜は、中秋の名月。


 城内居住の一族や主な重臣たちを集めて、月見の宴を催すのだった。


 夕刻、私たちは本丸内の広間に到着した。


 室内から庭園が見渡せるよう、邪魔なふすまなどは全て取り払われている。


 ちょうど西の空には、鮮やかな夕焼けが。


 程なく綺麗な満月が、東の空から姿を現すのが期待できた。


 ふと辺りを見渡すと、すでに席は埋め尽くされている。


 座る場所がない。


 困った。


 あ、あの真ん中の席が空いている!


 私はその、空いている席目がけて走り出した。


 「姫、待ちなさい!」


 私の耳には、母の止める声が届かなかった。


 周りでは、宴の準備をする人たちが、皆忙しそうに動き回っていた。


 すでに席についている人たちは、周囲の人たちとのおしゃべりに夢中で、私が「真ん中の席」を狙っているのに気がつかなかった。 「よいしょっと」


 真ん中の席に座った瞬間、周囲の人たちがいっせいに私の方を見た。


 一瞬沈黙が走った。


 皆それぞれ、困惑した表情を浮かべている。


 私は何も解らなかった。


 ただその席の座布団は他のどの席よりも立派で、ふかふかしていた。


 その席から宴の場全体が見渡すことができる、一番見晴らしのいい場所だった。 


 「姫っ、そこから離れなさい!」


 母が私の元へ駆け寄ろうとした。


 青ざめた表情で。


 どうして?


 せっかくいい場所を見つけたのに。


 その時だった。


 私の頬に、いきなり激痛が走った。


 「……!」


 「ばか者! 長尾(ながお)家当主の席で何をしておる!」


 私は「おやかた様」に思いっきり頬を引っ叩かれ、小さな体は枯葉のように吹っ飛んだ。


 「また末の姫か! そなた、どんな教育をしておる!」


 「申し訳ありませぬ!」


 おやかたさまに怒鳴られ、母は床に頬を付けそうな程の土下座をして詫びている。 「わしの席に、よくものうのうと……」


 痛む頬を押さえたまま、恐怖で動けなくなった私。


 震えながらただ、おやかたさまを見上げていた。


 父であるこの男を。


 そんな私を、おやかたさまは蹴ろうとしたのか、足を挙げてきた。


 私は恐怖で身動きが取れない。


 「父上、おやめください」


 まさに蹴りを入れられそうになった時。


 若い男が私とおやかたさまの間に割り込んできた。


 「若様」


 母上が「若様」と呼びかけた、この若い男。


 私の母違いの兄らしい。


 おやかたさまの嫡男で、この家の後継ぎ。


 兄とはいっても、かなり年が離れている。


 母上とそんなに違わないのではないだろうか。


 おとなしそうな風貌で、おやかたさまにはあまり似ていない。


 「なんじゃ、弥六郎(やろくろう)。邪魔するな」


 この兄は、弥六郎という呼び名らしい。


 そんな兄に対しおやかたさまは、不愉快そうな表情を浮かべる。 「父上、まだ幼い姫のやった事。この弥六郎に免じて許していただけないでしょうか」


 「うむ。宴の前にあまり怒ると、酒がまずくなる。お前たちも自分たちの席に戻るがいい。今宵の月に免じて許すとしよう」


 おやかたさまは母に、席に戻るように命じた。


 すると、


 「せっかくの宴なのに、気分を害しましたわ。御子のしつけくらい、きちんとできないのかしら?」


 おやかたさまの横に居た若い女が、顔を歪ませて不愉快な言葉を母に浴びせた。


 「申し訳ありませぬ」


 ただひたすら詫び続ける、母。


 「もうよせ。酒がまずくなる」


 おやかたさまに制されて、その女は母を一睨みして、顔を背けた。


 下品そうでいやな女だった。


 母よりはちょっと若いみたいだけど、母の方がこんな女なんかよりずっと美しい。


 「元気なのはいいが、お転婆も度が過ぎたらダメだぞ」


 兄は私の頭を撫で、笑顔で母の元へと返してくれた。


 優しそうな人。


 それが年の離れた兄・弥六郎への第一印象だった。 その夜は見事な満月が、夜空に浮かび上がった。


 楽師が幻想的な音楽を奏でる。


 だけどその夜の私は、月の美しさに感嘆する気持ちよりも。


 父、すなわちおやかたさまに殴られた頬の痛さ。


 一方的に振るわれた、暴力に対する恐怖。


 父の側にべったり寄り添う、下品な女への怒り。


 そんな女、そして父に対し、悲しいくらいに卑屈に振る舞う私の母。


 それらに対する怒りとやるせなさが心に交差して、幼い胸は締め付けられそうだったことがいつまでも忘れられなかったのだ。