彼のプライベート空間に初めて入った。

いくつ部屋があるのだろう。 

モノトーンで統一された調度品が置かれる中、窓辺の鉢の花が刺し色のように映えている。



「花を育てる人って好きよ……何か飲み物を持ってくるわ、キッチンを借りるわね」



花が好きだと言ったのに、好きと口にしたとたん、まるで彼に告白したようで恥ずかしくなり、足早にキッチンに向かった。

綺麗に片付いたキッチンは、ふだんあまり使われることがないのか水垢ひとつ見えなかった。

何かないかとパントリーを開けると、意外なほど様々なハーブティーが並んでいた。



「ハーブティーが好みなんて知らなかった」


「定期的にやってくる家政婦がハーブに凝っているらしくてね、勝手においていくんだ。

疲れたときに飲むお茶だの、心を落ち着かせるお茶だの、聞きもしないのに、うんちくを並べながらね」



その家政婦の影響だろうか、関心がないように言いながらも、香りを楽しみながらカップを口に運んでいる。



「私のこと……調査済みよね。落ちぶれた経営者の娘だってこと、知ってたんでしょう?

最初からわかってて私に声を掛けたの?」


「いや、そうじゃない……手が……物を扱う仕草に品があった。

君は身のこなしには品がある。しつけの行き届いた家で育ったのだろうと思った。調べさせたのはその後だ」


「そう……手回しがいいのね。でも、なぜ急にパートナーが必要になったの?」


「新しい事業を立ち上げたが、食い込んでいくのが難しい業界だ。

人の繋がりを知るには、あぁいったパーティーに出るのが一番だからね。

だが一人では様にならない、だから君を選んだ」


「わたしの髪が気に入ったのは嘘だったのね。利樹さん、私の黒髪に惹かれたって、初めて会ったときに言ったのに。

そうなの……そうじゃなかったんだ……ちょっと残念」


「……」



明らかに困った顔をしている。

この人のこんな顔を、彼の会社の何人が知っているだろうか。

常に背筋を伸ばし顔を引き締め、神経が緩むことなどないような隙のなさを常に保っている。

この部屋だって、どこにも生活の匂いはしない。



「そんな顔ができるのね。たまには顔の筋肉を緩めないと、石膏像みたいになっちゃうわよ」


「もともとこんな顔だ。余計なお世話だね」


「ほら、その顔よ。むくれた顔もなかなかよ」



フンと唇を尖らせて、また見たことのない顔を見せた。

顔の素直さに笑いが出た。

彼は笑うなとムキになり、しまいには互いに笑い出した。



「こんなに笑ったのは久しぶりだ。顔が元に戻るだろうか」


「戻らなくてもいいじゃない、新しい魅力が備わって、すてきだわ。あなたはもっと笑うべきよ」


「勝手に言ってろ」



笑うことで言葉までほぐれてきたのか、彼の乱暴な言葉も好ましいと思った。

キッチンに行こうと立った瞬間、手に当たったスプーンが音を立てて床に落ちた。

拾おうとテーブル下に身をかがめると、「僕が拾うよ」 と彼が先に椅子を降りてスプーンを拾い、くしくも私たちはテーブルの下で向き合った。

気まずさと照れくささの中、彼の手がスプーンを差し出した。

キスのタイミングがあるとすれば、間違いなくこんなとき。

スプーンを受け取る手を握ったまま、申し合わせたように顔が近づき、逸れることなく唇が重なった。

彼は優しく確かめるように触れたあと、私の唇を包んで柔らかい刺激を与えながらキスをつづけた。

やむなく唇を離したのは、その場にはとても不似合いな音のせいだった。

彼の胃袋が空腹を訴える音に、それまでの甘い空気は消え、笑い声があがった。



「食事に行こうか」


「それより、何か作りましょうか。こんなに立派なキッチンがあるんだもの、ぜひ使ってみたいわ」