昨日、自分の過去を語り、部活があるので、と帰る間際に「明日、10時から仕事を始める。それまでに来い」と言われた。授業があるというのに早退して来ることになってしまった。

「あっつ~!この時期だけ酒呑童子の館に戻りたいかも」

 夏になれば必ず口にする。酒呑童子の館は森の中にあるからか、とても涼しい。冬はとてつもなく寒いが。

「40度超えるとか、あり得ない!」

 リボンを解き、制服のブレザーを脱ぐとシャツの第一ボタンを開けた。生温い空気を胸からお腹に入れるが、なにも変わらない。余計にお腹に汗が溜まって、へそから流れ落ちた。椿が登る坂は県内でも1位2位を争う急な坂道だ。

「数年前までは35度ぐらいだったじゃん!なのに、なんでこんなんなの!」

 いくら拭いても汗が流れてくるし、いくら薄着しても汗が噴き出てくる。ハンカチがびしょびしょになる前に、汗を拭くのを諦めた。心の中で何故実験ラボは坂のすぐ上にあるのだろうと。どうせなら下に作れば良いのに。

「どうせ、ラボは涼しいし」

 ハンカチを鞄の中にしまい、クラウチングスタートの姿勢をとった。陸上部エースの椿にとってこの坂は屁でもない。アップとして良く走っていたし、腹直筋、背柱起立筋などの機能をフル稼働させれば簡単に登ることが出来る。
 前傾姿勢に使う大腿四頭筋(外側広筋・内側広筋・中間広筋・大腿直筋)。上体が徐々に起き上がってくるときに使う大腿四頭筋とハムストリングス(大腿二頭筋内側・外側・半膜様筋・半腱様筋)。白筋(速筋:四頭筋等:力は強いが持久力がない)をメインに使うから赤筋(遅筋:ハムスト等:力は弱いが持久力あり)を使う割合は低い。が、この筋肉をフル稼働させる。

「ふっ・・・・・・・・・・・・ぱぁ!」
「意味の分からない声を出すな」

 実験ラボの前で反り返って深く息を吐いていると、実験ラボの3階窓から友彦が顔を出していた。

「お早う御座います、なんでこの時間に呼び出すんですか!」

 朝の挨拶もして、指定のボストンバッグにぶら下げている腕時計を覗くと、9:30、指定された時間の30分前だった。

「すいません、早く来すぎましたね。でも私は学生です!10時なんて授業中です!」

 叫び続けると喉の水分がなくなり、咳き込んだ。

「早く来たことは良いことだが、坂道をあんなスピードで走るのはどうかと思うが?」
「と言うと?」

 昨日、友彦が言った口調をマネして聞いてみた。

「遅い、鈍すぎる」

 3秒間、脳の回路が爆発しフリーズした。

「・・・・・・それを、陸上部エースに言いますか!?短距離走6秒7の私に!?」
「そうかも知れんが、お前の今のタイム7秒2だぞ」
「そうですか!なら、先生は私より早く走れるんですね!」

 やけくそで言うと滝のように流れる汗を止めたくて、実験ラボの中に入った。実験ラボは36階もある高層マンションの最上階にある。1階は他の高層マンションとかと同じ、エレベーターに乗るためにある。そこまでは暗証番号なしで入れるのだが、2階からが大変だ。指紋認証、静脈認証、顔認証、虹彩認証、手のひら認証、声紋認証、耳介認証などの生体認証が始まる。これを突破すると最上階にはつけるが、まだ部屋には入れない。
 椿が透明のガラス製の扉の前に立つと、扉に文字が映し出された。

「未来に向かって大いなる展望を与えてくれるような
高所に立っていれば当然、ときおり激しい風に吹かれることだろう。だが目指すものがあるのならそんな風のことは気にしなくていい。これを言った人を当てろってことね」

 椿は悩む素振りも見せずに、同じ扉に映し出されたキーボードを叩いた。

『お入り下さい、金澤友彦はこの部屋にいます』

 と電子音がしたと同時に、声がして扉を開いてくれた。木製の扉の前に立つ前に、ガラス製の扉は合わせて8枚あった。

「早かったな、暗号は解けたのか?」
「先生、お言葉ですが。あれは暗号ではありません、ただの詩人の名言です」

 学校の食堂のおばちゃんから貰ってきた、お菓子とカステラ、チョコ、ケーキを机の上に並べた。

「なんだこれは」
「食堂のおばちゃんに貰ってきたんです。先生は甘いものが好きだからって」
「それ、溶けてないか?」
「溶けてません、大丈夫です」

 珈琲入れて下さい、と言ってケーキの入ったケースを開けて中を覗くと、そこには大きないちごののった、フルーツケーキが神々しくあった。

「先生、食べます?」
「食べる」

 友彦に大きめに切り分けたフルーツケーキをやり、自分は友彦よりも少し小さく切った。

「それを食べながら聞いてくれ」

 珈琲を手渡されながら友彦は、書類を引き寄せた。

「昨日の夜、何があったかは知っているか?」
「妖怪がらみの事件ですよね」
「何故妖怪がらみだと分かる?」
「酒呑童子に連れ去られていたときからなんですけど、妖怪が暴れると体毛がざわつくんです」