友彦の言った実験ラボは学校からすぐの、零細や家族経営のこぢんまりとした会社が集まるちょっとしたオフィス街に、隣接されていた。こんなオフィス街は借りるのも高いのに、買ったと言っていた。確かによくよく見てみれば、友彦の着ている服や装飾品はみな、高いものばかりだった。何をしてそんなに稼いでいるのかは気になったが、聞かないことにした。

「広いですねぇ」

 畳で数えるなら四十五畳程度の空間の広い、実験ラボだった。しかし机の上は書類かなにかの紙が散乱しているし、その紙の上にコンビニ弁当のゴミが置いてあった。イケメンなのにこれじゃ無駄な容姿だ。

「先生、少しは片付けたらどうですか?」

 机に近づきじーっと書類を見る。書類は人ならざる者たちに関するものだった。『小豆洗い子供誘拐事件』、『雷獣子供誘拐事件』、『酒呑童子子供殺害事件』、『ろくろ首子供監禁事件』・・・・・・。

「先生これ、被害者、子供じゃないですか。しかも最終的には殺されてる」

 書類に目を通していくと、ほとんどが子供で誘拐された子供たちはみんな、殺されている。人ならざる者たちが見えない警察は妖怪を逮捕するわけにもいかず、謝罪会見を開いたり、腰を深く折って親に謝る、それしか出来ない。

「そうだ、全てでは無いが未解決事件が多い。雷獣の事件は13年前の事件だが、逃げ足が速く痕跡すら残さない」

 友彦は珈琲を二人分注ぎ入れながら、大きなため息をついた。それほど面倒な人ならざる者だと言うことだ。
 雷の如く走り抜ける雷獣に誰も気づかないし、子供が浚われたとも誰も思わない。

「瑠璃塚は雷獣のことを知っているのか?」
「勿論ですよ。雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には『平家物語』において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる、です」

 椿の表情にも声色にも、誇らしげな言動はなかった。ただ知っていて当然だと言うように、黙々と書類に目を通しているだけだった。

「瑠璃塚、妖怪に詳しいのか?」

 珈琲を受け取ったが、力が抜けそうになった。【妖怪に詳しい】は椿にとって禁句だ。下っ腹から上へ上へと泥水が湧き上がってるような焦燥感に襲われた。冷や汗が滝のように背中を流れ出した。

「・・・・・・詳しくなってしまった、と言うのが正しいです」
「と言うと?」
「私は小さい頃から、人ならざる者たちが見えるんです。だからなにかとその者たちが引き起こす事件に巻き込まれるんです」

 焦りを見せずになんとか答えることが出来た。しかし手に持っていた珈琲カップを強く握り、手汗が滲み出てきた。終いには手が震え膝が震えてきた。

「何があったんだ?」

 溢しそうな珈琲カップを友彦は、取り上げて机の上に置いた。すいません、訂正です。友彦はココアをたっぷりコップに入れて飲んでいる。

「・・・・・・あれは私が4歳のときでした。一人で居たのも悪いとは思ってました。公園で本を読んでたんです、そうしたら体が宙に浮き空高くに飛んでいたんです。おかしいと思いました。それで横を見ると角の生えた鬼が私を俵のように担ぎ上げてたんです」

 椿は背中が震え、手足、心臓まで震えているのが感じ取れた。なんとか必死で立っているが、だんだん力が入らなくなってくる。

「赤く長い髪、額に生えた2本の角。それに腰にぶら下げた幾つもの徳利。見て分かりました、酒呑童子だと」
「何故そんなすぐに分かった?」
「私は生まれてから数回、いえ数十回と言うほどその者を見てきました。だから不思議に思い調べたんです、そのとき読んでいた本もそうでした」

 目を閉じると未だにその光景が鮮明と目に映る。

「酒呑童子の口には、べったりと人の血がついていたんです。鼻の良い私はその匂いを嗅ぎました、まだ新しいものでした」

 当時の椿にはその事が恐怖として感じ取れた。口にべったりとついた人血。自分を担ぐその手もまた人血で汚れていた。酒の入った徳利にも人血がべったりとついていた。いつ自分も食われるかと、本で知ったことが恐怖に変わった。

「どのくらい空を飛んだのかは分かりませんが、森の奥にある大きな建物に連れ込まれました。例えて言うなら中国の何百年も前の王朝の建物です。その一室に連れ込まれて、着替えろと言われました」

 部屋に持ち込まれてきたのは、鮮やかな春仙女のような和の色で言うと鴇色、珊瑚色、紅梅色などの薄い色から濃い色の暖色系と、江戸紫、浅葱色、萌葱色などの薄い色から濃い色の寒色系の漢服だった。それと一緒に様々な簪があった。

「酒呑童子になにかされたのか?」
「いいえ、傷つけられても閉じ込められてもしていません。酒呑童子は私が12歳になったとき、家に帰してくれました。しかしそこからが悪夢でした。シャワーでいくら流しても酒呑童子の匂いが体のどこかにこびり付いていたんだと思います。様々な人ならざる者たちが襲ってきました。その毎日が私にとっては恐怖でしかなかったのです」

 危害を加えられることもあれば、ただこちらをじっと見ているだけだったり、雷獣や一反木綿には攫われそうになったり。椿は完全に思い出してしまい、その場に崩れ落ちた。

「大丈夫か」

 友彦は椿をソファに座らすと、自分は少し間を開けて横に座った。

「はい、もう慣れてしまいました、と言えたら良いけど。頭の中ではそう思っても体はすぐ拒絶してしまうんです」

 明るみのない笑顔を友彦に見せると、珈琲カップを受け取った。

「この仕事、出来そうか?」
「はい!大丈夫です。攫われると決まったわけじゃありませんから」

 椿は強く言葉にして、心にもその言葉を刻んだ。握手を求めるように右手を差し出した。不安そうにしながらも友彦は握手に応じてくれた。

「よろしくお願いします!先生」