「田崎です、鈴木くんだよね?」
ドアを開けたのが奈々ちゃんだってわかった時、嬉し過ぎて勝手に口角が上がった。
なのに俺は、奈々ちゃんと顔を合わせる前に、つい眼鏡を取ってしまった。
俺はまた、奈々ちゃんの前で『鈴木湊人』になることを選んだんだ。
本当のことを言わないと、俺は奈々ちゃんの中に、いつまで経っても存在できないのに。
また兄貴のふりをした。
ほんと、何やってんだろう、俺。
奈々ちゃんのピアノを褒めたのはいいけど、
「タッチが優しくて繊細で、俺すごく好き」
すごく好き、なんて言ってから、ものすごく恥ずかしくなった。
でも、奈々ちゃんのピアノも、奈々ちゃんのこともすごく好き。
奈々ちゃんのノクターンのお返しに、俺はセレナーデを弾いた。
セレナーデは恋の曲。
好きっていう気持ちが伝わればいいと思った。
もし伝わっても、それは兄貴からの気持ちってことになってしまうのに。
本当にバカみたいだ。
そんなのわかってる。
奈々ちゃんが、俺のピアノの音をすごく好きだって言ってくれた。
それだけで、俺は充分だよ。



