「それでは、祝福の祈りを捧げる」

ハヤセミが静かに言った。

「本来ならば祈祷師が唱えるのが通例だが……花嫁はなんと言ってもクンリク様だ。そのため、今回はご本人に唱えて頂こう」

呆然としていたカヤは、ハヤセミの言葉を理解するのに少し時間が掛かった。

「……えっ?」

ようやくその意味に気が付いた時、聖堂中の人間がカヤを見つめていた。

「クンリク様。神国記からご詠唱下さい。第二章の第三節です」

ニッコリと笑顔を向けられる。

「誰が唱えるか!」と、そう大声で言ってやりたかったが、黙るカヤにハヤセミは更に笑みを深めた。

「さあ。蒼月様も聞きたがっていますよ」

ハヤセミの腕の中の蒼月を見た瞬間、カヤには『祈らない』と言う選択肢は残されていなかった。


カヤはハヤセミを一睨みすると、己を落ち着けるように深く深呼吸をした。


誰もが身じろぎすらしない静寂の中、ゆっくりと床に膝を付き、両手を握り合わせる。

この国に古代より伝わる『神国記』は、カヤが幼い事から行ってきたお祈りの元となる正典だ。

隅から隅まで熟読し、暗記する事を強要されてきたため、かつてのカヤは空で全てを口にする事が出来た。

(……第二章の第三節)

果たして覚えているのか不安になりながら、そっと目を閉じる。

しかしそのような心配は杞憂だった。

長年の癖とは恐ろしいもので、お祈りをしなくなってから数年も経つと言うのに、瞼の裏にはっきりとその文章が浮かんできた。


「――――神は穢れた地に降り立ち、仰られた」

するりと出てきた祈りの言葉が、洞窟に反響し、さざ波のように広がる。


「私を愛する者は、私の言葉を守るだろう。私を愛さない者は、私の言葉を守らないだろう」


あの頃のように、一言一句違えることなく、言葉が口を突いて出てくる。

幼いカヤを形作っていた残酷な神の教えが、音となってこの身を縛り、締め付けてくる。


「しかし私を愛さない者達よ。神の言葉を信じるならば、その内には神の愛が実現し、これによって私達が、いつも光の中に居る事を知るだろう」


(ああ、どうしてだろう)

こんなに美しい言葉のはずなのに、どうしてそれを唱える度、緩やかに地獄に堕ちていくのか。


「愛する事を知らぬ者は、死に留まるようなものである。愛する者たち、私がこのようにあなたたちを愛したのだから、あなたたちも互いに愛し合うべきです」


こんなのは、ただの言葉だ。
紛い物の祈りだ。

カヤは知っていた。
本当に祈りが、どれだけ清廉で研ぎ澄まされているのかを。



(―――――翠)

こんなものよりも、あの人の透き通る言霊が聞きたい。





カヤが祈り終えた後、聖堂には割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

「素晴らしい詠唱をありがとうございました」

パン、パン、とハヤセミが二度手を打つと、拍手が鳴り止む。