カヤは走り出していた。
もう、目の前の蒼月しか見えなかった。

転げるように花の中を駆け抜け、眼尻から溢れ出した涙を追い越して、そしてその背中に手を伸ばす。

蒼月、と、その名前が喉まで出かかった時、『誰か』がカヤよりも先にその名を呼んだ。

「―――――蒼月!」

たおやかな声が左方から聞こえた瞬間、カヤ以外の『誰か』の腕が蒼月を抱き上げた。


「えっ……」

蒼月しか視界に入っていなかった眼球が、ようやくそれ以外の景色を捕らえる。


カヤのほんの目の前に、その人は立っていた。

カヤと同じくらいに息を切らし、カヤと同じように蒼月を抱き上げたまま、固まっている。

驚愕に見開かれた瞳は、確かにカヤを映していた。


「翠……?」

深い黒色の双眸が、大きく揺れた。


「カヤ……?」

震える唇が、カヤの名を紡いだ。

何百回、何千回、と呼んできた名前のはずなのに、翠はとても慎重に、カヤの名を口にしたように聞こえた。


「どうして此処に……?」

衝撃から抜け出せないまま、唖然として疑問を投げかける。


「虎松がこの村の出身だって聞いたから……もしかしたら蒼月が居るかもしれないって思って……カヤは……?」

「わ、わたしも……」

そう答えたっきり、カヤは黙り込んでしまった。

その先何を言えば良いのか、全然分からなかった。

言いたい事が、たくさんあったはずなのに。
こうして翠を目の前にすると、それら全てが綺麗に飛んで行ってしまった。


それは翠も同じようで、二人の間を気まずい沈黙が支配する。

こんなに近い距離に居るのに、手を伸ばせば望み通り触れられるのに、どうしても身体が動かなかった。

怖かった。
翠が何を思い、何を言おうとしているのか、知ってしまうのが酷く怖かった。


成す術も無く立ちすくんでいると、

「かかー」

小さな指が、カヤの掌を取り、引っ張った。


蒼月に導かれ、カヤの指先が翠の掌に触れる。

蒼月の紅葉のような手を挟み、カヤと翠の掌が、まるで引き寄せられるようにして重なった。


―――――なんて柔く、温かな。


「っ」

自分でも驚くほど、あっという間に感情が膨れ上がった。


ずっと怖かった。不安だった。自分が許せなかった。

会いたかった。縋りたかった。抱き締めたかった。抱き締めて欲しかった。


「っ翠……」

嗚咽と共に、大量の涙が溢れ出す。

顔をくしゃくしゃにして唇を噛むカヤの頬に、翠がそっと触れた。


繊細な指先が、恐る恐る、と言ったようにカヤの頬を滑る。

「二人とも、生きて……るん、だよな……?」

簡単に崩れ落ちてしまいそうな声だった。

声と同じくらいに頼りないその右手に掌を重ね、涙交じりに、しっかりと頷いた。


「生きてるよ。ちゃんと生きてる」


――――くしゃり、と。

呆気なく翠の顔も歪んで、次の瞬間には抱いている蒼月ごと、翠の腕に抱き寄せられた。