広間を後にする翠の背中を見送った後、カヤはミナトに連れられて部屋に戻ってきた。
「……おい?何してんだ」
部屋に着いた瞬間、手近な布袋に着替えを押し込み始めたカヤに、ミナトが訝し気な声を出した。
「帰るの」
短く答えながら、袋の口をぎゅっと紐で絞める。
着替えといっても、手持ちの衣は連れ去られた時に来ていた一着だけだったので、荷造りはすぐに終わった。
「は?」
「ごめん、そこ退いて」
入口に立っていたミナトを手で押しやると、その手を一瞬で掴まれた。
「ふざけんな馬鹿!何考えてんだ!」
ぐいっ、と乱暴に引き寄せられるが、カヤはそれを思い切り振り払った。
「翠が待ってるの。私、行かなきゃ」
淡々と答えたカヤに、ミナトが一瞬唖然とした顔をした。
「っ琥珀!辛いのは分かるけど、冷静になれ!」
次の瞬間、カヤの両肩を掴みながらそう言ったミナトは、まるでカヤの気が狂ってしまったのでは、と言うような、心配そうな表情をしていた。
「翠様が待ってるわけ無いだろ!祝言の事も、腹の子の事もっ……全部聴いて、それでも待ってるなんて、あり得ねえ!」
「ううん、あり得るの」
生憎、カヤは狂ってなどいなかった。
不思議なほど落ち着いていて、不思議なほど頭の中が冴え渡っていた。
「翠は待ってくれてる。私には分かる。翠の事なら、全部分かるの」
あの時、あの広間で、翠はカヤの事をはっきりと分かってくれた。
カヤも翠が何を思ったのかがはっきりと分かった。
(どうして迷う事なんてあったんだろう)
腹の子のためにも戻らない方が良いのでは―――――と迷情を抱えてしまった事が、信じられない。
カヤの居場所はたった一つだった。
安全で平穏だとは言い切れ無いけれど、その代わりに曖昧だった己の輪郭をはっきりと知らしめてくれる、あの場所。翠の隣。あそこだけ。
「ごめんね、ミナト」
立ち尽くしていたミナトを、強く押し退ける。
よろめいた彼と、すれ違うようにして歩を進めた。
「……さよなら」
小さく別れを呟いた時だった。
「―――――琥珀!」
後ろから伸びてきた腕に身体ごと絡めとられた。
「頼むから行くな!」
カヤを背後から強く抱き締めながら、ミナトが喚く。
「戻っても絶対にしんどい思いするだけだ!此処に居れば、ずっとお前を守ってやれる!誰にもお前を虐げさせない!危険な目にも合わせない!」
ここまで脇目も振らずに感情を剥きだしにするミナトを、カヤは想像すらした事が無かった。
「だから此処にいろ!俺はお前が望むなら、腹の子の父親になる覚悟は出来てる!」
ぐっ、と、身体に回る強い腕に、ことさら力が籠った。