【完】絶えうるなら、琥珀の隙間

兵達の話し声も足音も全てが遮断されて、そこにはもう吐く息の音しか存在しなかった。

がぼがぼっ……と口から飛び出た息が気泡になり、ゆっくり上がっていくのが見えた。

恐ろしいほど白い翠の腕は、カヤの腕をしっかりと掴み、真っ暗な水底へ誘って行く。

ああ、引き摺りこまれたのだ。
そう理解した瞬間、カヤの口から最後の息が漏れ出た。

まともに準備する暇すら無かったため、元々少なかった息はあっという間に底を付いた。


(苦しい、嫌だ、息がしたい)

カヤは渾身の力で翠の腕を振りほどくと、水面に向かって足掻いた。

が、無情にもカヤの体を抱き込んできた翠によって、呆気なく引き戻される。


(ど、うして)

翠に掻き抱かれながら、カヤは絶望に打ちひしがれた。

もう無理だ。一欠けらさえ息が残っていないのに。
どうして貴方はいつも、私を繋ぎ止めるのだ。


溢れる何かに押し出されるようにして、水中に涙が溶け出ていく。

その行く先を見すえ、カヤはそっと目を閉じた。

(ねえ、苦しいの、いつも)


―――――その愛おしい元凶が、カヤの頬を引き寄せる。


唇に柔い感触を感じたと同時、やけに温い空気が流れ込んできた。


(……あ、おいしい)

未だかつてない空気の味。

朦朧としかけていた意識の中、肺がゆっくりと満たされていくのを感じた。

カヤは薄っすらと眼を開けた。

(まつげ……綺麗……)

とんでもない至近距離にあるその瞼は、しめやかに閉じられていた。

その向こう側では、翠の黒髪が生き物のように漂っていて、更にその先にある水面には、橙色の灯りが二つ見える。

ゆらゆらと揺れていた松明の灯りは、やがて離れ、そして消えて行った。


(良かった……去って行った……)

だと言うのに、塞がれたままの唇は一向に離れようとしない。

一度は吹き込んでもらった空気も、重ねた唇の隙間からどんどん漏れ出て行く。


(あ、もう無理だ)

カヤがはっきりと限界を迎えた瞬間、翠の眉根も苦しそうに歪んだ。



「ぷはっ……!」

―――――ザバンッ……
二人が浮上したのはほぼ同時だった。


カヤは、いの一番に肺いっぱいに空気を吸い込み、そして咽かえった。

「げほ、げほっ……げほ……はっ、はあ……」

どうにか息を整えながら、咄嗟に岸辺を見やる。

先ほどまでそこに居たであろう兵達の姿は、もう無かった。

「す、すい……よかったね……」

咳き込み過ぎてふらふらする頭のまま、カヤは翠を振り返った。


呼吸が、再び止まった。


翠は緩く肩で息をしながら、じっと湖面を見下ろしていた。

ぽた、ぽた、と顎先から垂れる雫が、静かに湖面に滴っている。

青ざめたような白い肌が、この世のものとは思えなくて――――ぞっとした。


「……翠……?」

震える唇で呼んでいた。

ふ、と下がっていた睫毛が上がって、黒い瞳がカヤを見据える。

カヤ、と。
そう音も無く翠が呟いた気がした。

「あ……」

濡れた髪をゆるりとかき上げながら、翠はこちらへ向かってくる。


瞬き一つすらしない。

ひたすら熱に浮かされたような表情で、それしか知らない生き物のように。