誰かにその言葉を投げかけてもらうのは、至極久しぶりの事だった。

「……こちらこそ、ありがとう」

腹に良く分からないむず痒さを感じながら、真似してその言葉を紡いだ。


コウは緩やかに眼尻を下げると、そのまま駆けだした。
走り去っていくその背中は、あっという間に夜の闇に消えていった。

行ってしまった。
なんて足が速いのだろう。


ふう、と息を吐き、カヤは夜空を仰いだ。

先ほどよりも高い位置で、三日月が柔く光を放つ。
普段は刃に比喩していたそれが、今は誰かの笑った眼のように見えた。

そのまま視線を落とせば、翠様の大きなお屋敷が松明の炎に照らされて、不気味に鎮座していた。

「……意志のあるところに、道は開く」

ぽつり。
あの美しい人から投げかけられた言葉を、口にする。


道の先にあるものが己の幸福なのだとして、きっとそれはカヤにとっては遠く幻のようなものだ。

霞掛かっていて、よく見えもしない。
しかし、一歩を歩みださない事には一生見えないままなのだろう。


屋敷へと続く大きな道は、まっすぐ伸びていて、どこまでも続いている。

それがどうにも果てしなくて、カヤは屋敷から眼を反らし、家の中へ入ろうとした。

「ん……?」

入口の木枠を潜ろうとして、足を止める。
足元に控えめに置いてある包みに気が付いたのだ。

それは、ナツナが手にしていた包みだった。

そっと拾い上げ葉を捲ると、そこには大きな二つの握り飯が仲良く並んでいた。

カヤは大きな衝撃を受けた。

あんなにも冷たい態度を取ったのに。
あんなにも酷い事を言ったのに、まさか、こんな。


ぢく、り。
耐え切れない程に、心臓が痛んだ。

けれど、こんな陳腐な痛みより、きっとあの子の方が痛かったはずだ。

(どうしてこんなに……)

恐らく、心のどこかで分かっていた。
カヤに向けてくれたあの笑顔に、偽りは無いのだと。

迷いの無い優しさが怖くって、眼を反らしただけだった。
だって、眩しくて、痛かったんだ。

(痛い、痛い痛い痛い)

痛くて痛くて、カヤは無意識に踵を返していた。


自分の予想の範囲外の優しさを受けた時、人は少々冷静さを欠くらしい。
気が付けばカヤは、隣の家の入口に立っていた。

「あのっ……すいません!」

夜分だと言うのに、迷惑さも忘れて、家の中に向かってそう呼びかけていた。

そう言えば、この家にはあのミナトも居るはずだと言う事を思い出したが、もうそれも気にしていられなかった。