じり、と後ずさりしたカヤは、次の瞬間には全力で部屋を飛び出した。
「カヤッ……くっ、」
廊下に転がり出た時、カヤを追ってこようとした翠が床に膝を付くのが見えた。
きっとまだ体力が戻っていないのだ。
「おい!カヤ!待て……!」
一瞬足が止まりかけたカヤだったが、叫んだ翠の声を振り切るようにして脱兎のごとく走り出した。
灯りが消えた廊下を全速力で駆け抜け、そしてカヤは屋敷を出ても足を止めなかった。
普段は大勢の人で賑わい活気づいている村は、今日は息を潜めている。
人間だけでなく、村そのものが寝静まっているようだった。
売り物としてこの村に来て翠の眼に触れた日、初めて友達になったナツナと並んで歩いた日、ユタを引っ張って森へ雪中花を探しに行った日、ミナトに支えられながらリンに乗って隣国へ行った日―――――
十数年の人生の中で、ほんの僅かにしかこの村に居なかったが、なんと思い出の鮮やかな事か。
あの冷たい砦よりも、カヤはこの国のこの村で息をしている方が一番しっくり来た。
きっと幸せだったのだ。
自由に太陽の下を走り回って、自分に笑いかけてくれる人達に囲まれる生活は、人生で一番幸せだった。
儚い幸福感を置いてけぼりにして、カヤは独りで往来を行く。
今日も村の門にはやる気の無い兵が立っていた。
二人とも立ったまま居眠りをしていて、カヤは忍び足で門をくぐり抜けると一直線に森へ向かった。
森へ入る直前、ようやく後ろを振り向いた。
カヤが走ってきた道を来る者は居ない。どうやら翠を上手くまけたようだった。
そう確信したカヤは、息を整えるとゆっくりと森へ入った。
今夜は満月だった。
踏みしめる草に自分の影が映る程に、月光が眩しい。
意識せずとも足は勝手に動いた。
間違いなく終焉に向かって進んでいるのに、鼓動も呼吸も落ち着き払っていた。
不思議なほど静穏な気持ちのまま歩み続けたカヤは、やがて足を止める。
ぽっかりと木々が開けて、目の前に広い湖が現れた。
―――――終わるのならこの場所で、とそう決めていた。
カヤは湖の淵に立つと、緩やかにさざ波を立てる水面を見渡した。
今夜は満月が二つあった。
片方の満月はしっかりと輪郭を成していて、もう片方はゆらゆらと不鮮明に揺れている。
カヤは今から、その曖昧な方の世界に飛び込む。
初めは水面に波紋が広がり、この静寂を騒がせるだろう。
でもきっとすぐにそれは落ち着き、少しずつまた綺麗な湖面に戻る。
その時にこそ本当の意味で終わるのだ。
(終わったらどうなるのかな)
カヤは自分の右手を見下ろした。
骨、血液、皮膚――――実体のあるこの右手は、きっと死んでも残るだろう。
しかしカヤの意識は?魂は?
今こうやって何かを考えているカヤの中身だけ、本当に都合よくあの場所へ行けるのだろうか?
狂うほど穏やかで、綺麗なあの場所へ。
(……行けると良いな)
不安になったところでどうしようも無い、とカヤは自分自身を納得させた。
辿り着けなかったとしても、その代わりに在るのは完全なる消滅だ。
それこそ願ったり叶ったりだ。
カヤは右足を地面から浮かせて、ひたり、と湖面に付けた。
冷たい。
もう夏だと言うのに、足の裏から伝わる冷たさがカヤの心臓を凍えさせた。
「カヤッ……くっ、」
廊下に転がり出た時、カヤを追ってこようとした翠が床に膝を付くのが見えた。
きっとまだ体力が戻っていないのだ。
「おい!カヤ!待て……!」
一瞬足が止まりかけたカヤだったが、叫んだ翠の声を振り切るようにして脱兎のごとく走り出した。
灯りが消えた廊下を全速力で駆け抜け、そしてカヤは屋敷を出ても足を止めなかった。
普段は大勢の人で賑わい活気づいている村は、今日は息を潜めている。
人間だけでなく、村そのものが寝静まっているようだった。
売り物としてこの村に来て翠の眼に触れた日、初めて友達になったナツナと並んで歩いた日、ユタを引っ張って森へ雪中花を探しに行った日、ミナトに支えられながらリンに乗って隣国へ行った日―――――
十数年の人生の中で、ほんの僅かにしかこの村に居なかったが、なんと思い出の鮮やかな事か。
あの冷たい砦よりも、カヤはこの国のこの村で息をしている方が一番しっくり来た。
きっと幸せだったのだ。
自由に太陽の下を走り回って、自分に笑いかけてくれる人達に囲まれる生活は、人生で一番幸せだった。
儚い幸福感を置いてけぼりにして、カヤは独りで往来を行く。
今日も村の門にはやる気の無い兵が立っていた。
二人とも立ったまま居眠りをしていて、カヤは忍び足で門をくぐり抜けると一直線に森へ向かった。
森へ入る直前、ようやく後ろを振り向いた。
カヤが走ってきた道を来る者は居ない。どうやら翠を上手くまけたようだった。
そう確信したカヤは、息を整えるとゆっくりと森へ入った。
今夜は満月だった。
踏みしめる草に自分の影が映る程に、月光が眩しい。
意識せずとも足は勝手に動いた。
間違いなく終焉に向かって進んでいるのに、鼓動も呼吸も落ち着き払っていた。
不思議なほど静穏な気持ちのまま歩み続けたカヤは、やがて足を止める。
ぽっかりと木々が開けて、目の前に広い湖が現れた。
―――――終わるのならこの場所で、とそう決めていた。
カヤは湖の淵に立つと、緩やかにさざ波を立てる水面を見渡した。
今夜は満月が二つあった。
片方の満月はしっかりと輪郭を成していて、もう片方はゆらゆらと不鮮明に揺れている。
カヤは今から、その曖昧な方の世界に飛び込む。
初めは水面に波紋が広がり、この静寂を騒がせるだろう。
でもきっとすぐにそれは落ち着き、少しずつまた綺麗な湖面に戻る。
その時にこそ本当の意味で終わるのだ。
(終わったらどうなるのかな)
カヤは自分の右手を見下ろした。
骨、血液、皮膚――――実体のあるこの右手は、きっと死んでも残るだろう。
しかしカヤの意識は?魂は?
今こうやって何かを考えているカヤの中身だけ、本当に都合よくあの場所へ行けるのだろうか?
狂うほど穏やかで、綺麗なあの場所へ。
(……行けると良いな)
不安になったところでどうしようも無い、とカヤは自分自身を納得させた。
辿り着けなかったとしても、その代わりに在るのは完全なる消滅だ。
それこそ願ったり叶ったりだ。
カヤは右足を地面から浮かせて、ひたり、と湖面に付けた。
冷たい。
もう夏だと言うのに、足の裏から伝わる冷たさがカヤの心臓を凍えさせた。
