「……なら良いけど」
そう言って翠が立ち上がったので、カヤは胸を撫で下ろす。
翠は一度大きく伸びをすると「なあ」とカヤに声を掛けて来た。
「この後さ、時間あるか?少し散歩付き合って欲しくてさ」
驚いた。
お勤めの終わりに、こんな風に翠に誘われた事なんて一度も無かった。
「大丈夫だけど……」
「良かった。ごめんな、疲れてるのに」
「それは全然。でもどこに散歩行くの?」
「森」
「……その恰好で?」
「まさか」
肩をすくめた翠は、祭壇の下から小汚い布と小さな壺を出してきた。
どうやらコウの姿になるらしい。
カヤが部屋の外で待つと、すぐに翠はコウへと成り代わった。
何やら肩から包みを下げている事にカヤは気が付いた。
「こっちだ」
そう言って翠がカヤを誘ったのは、部屋の隅にある切戸口だ。
その先には、翠が剣の稽古をするための小さな庭しかない。
回りは高い塀に囲まれいるため、外からは誰一人として入れないし、逆に出る事も出来ないはずなのだが。
カヤは戸惑いつつも、翠に続いて庭に降り立った。
太陽はすっかり沈んでいるものの、屋敷の敷地内に置かれている大量の松明のおかげで、真っ暗では無い。
遠くの方から、屋敷の者達が織りなす喧噪が風に乗って聞こえて来た。
恐らく今日の勤めが終わった者達が、酒場へ繰り出し始めている頃だろう。
翠はスタスタと迷いなく塀の方へ向かって歩いていく。
(……まさか飛び越えろと?)
嫌な予感を抱いていると、翠はとある箇所で立ち止まった。
塀は背の高い丸太が、ズラリと横に並んで形成されている。
そのうちの一本に、良く見ないと分からない程度の溝が彫ってあった。
翠はその溝に指を引っかけると、慎重に引いた。
「え」
カヤは思わず声を漏らした。
ぴっちりと隙間なく並べられていた丸太の一部が、そこだけ四角く切り取られたように動いたのだ。
そしてそこから現れたのは、人間が一人分通れるくらいの穴だった。
「俺の秘密の抜け道。タケルには言うなよ?」
悪戯っ子のように笑い、翠は素早くその穴から外に出た。
カヤも慌ててその穴をくぐる。
出た先は、どうやら屋敷の裏手側らしかった。
そのためか、辺りには人っ子一人居ない。
しっかりと穴を閉じた翠は、カヤを手招いた。
「急ごう。そろそろ雨が降りそうだ」
「……分かるの?」
「なんとなくな」
さすがは神官様だ。
不思議だ能力だな、と思いながらもカヤは翠の後を追って走った。
やがて2人は、屋敷の敷地を囲む塀にぶち当たった。
普段出入りしている門とは真反対に位置しているためか、ここにも誰も居ない。
が、勿論外に出れそうな門だって無い。
屋敷へ入るには必ずあの門を通らなければいけないのだ。
先ほどの塀よりは低いが、目の前の塀はカヤの身長よりも随分と高かった。
カヤがそれを見上げていると、翠が門の木を括る紐に手を掛けて言った。
「待ってろ。誰も居ないか確認する」
翠は驚くほどの身軽さで、ひらりと門の上に登った。
タケルが熊で、カヤが猿だとしたら、きっと翠は鹿だ、と思った。
しなやかに大地を駆ける、女鹿。
誰にも穢されない、誰にも掴まえられない、孤独な神の使い。
そう言って翠が立ち上がったので、カヤは胸を撫で下ろす。
翠は一度大きく伸びをすると「なあ」とカヤに声を掛けて来た。
「この後さ、時間あるか?少し散歩付き合って欲しくてさ」
驚いた。
お勤めの終わりに、こんな風に翠に誘われた事なんて一度も無かった。
「大丈夫だけど……」
「良かった。ごめんな、疲れてるのに」
「それは全然。でもどこに散歩行くの?」
「森」
「……その恰好で?」
「まさか」
肩をすくめた翠は、祭壇の下から小汚い布と小さな壺を出してきた。
どうやらコウの姿になるらしい。
カヤが部屋の外で待つと、すぐに翠はコウへと成り代わった。
何やら肩から包みを下げている事にカヤは気が付いた。
「こっちだ」
そう言って翠がカヤを誘ったのは、部屋の隅にある切戸口だ。
その先には、翠が剣の稽古をするための小さな庭しかない。
回りは高い塀に囲まれいるため、外からは誰一人として入れないし、逆に出る事も出来ないはずなのだが。
カヤは戸惑いつつも、翠に続いて庭に降り立った。
太陽はすっかり沈んでいるものの、屋敷の敷地内に置かれている大量の松明のおかげで、真っ暗では無い。
遠くの方から、屋敷の者達が織りなす喧噪が風に乗って聞こえて来た。
恐らく今日の勤めが終わった者達が、酒場へ繰り出し始めている頃だろう。
翠はスタスタと迷いなく塀の方へ向かって歩いていく。
(……まさか飛び越えろと?)
嫌な予感を抱いていると、翠はとある箇所で立ち止まった。
塀は背の高い丸太が、ズラリと横に並んで形成されている。
そのうちの一本に、良く見ないと分からない程度の溝が彫ってあった。
翠はその溝に指を引っかけると、慎重に引いた。
「え」
カヤは思わず声を漏らした。
ぴっちりと隙間なく並べられていた丸太の一部が、そこだけ四角く切り取られたように動いたのだ。
そしてそこから現れたのは、人間が一人分通れるくらいの穴だった。
「俺の秘密の抜け道。タケルには言うなよ?」
悪戯っ子のように笑い、翠は素早くその穴から外に出た。
カヤも慌ててその穴をくぐる。
出た先は、どうやら屋敷の裏手側らしかった。
そのためか、辺りには人っ子一人居ない。
しっかりと穴を閉じた翠は、カヤを手招いた。
「急ごう。そろそろ雨が降りそうだ」
「……分かるの?」
「なんとなくな」
さすがは神官様だ。
不思議だ能力だな、と思いながらもカヤは翠の後を追って走った。
やがて2人は、屋敷の敷地を囲む塀にぶち当たった。
普段出入りしている門とは真反対に位置しているためか、ここにも誰も居ない。
が、勿論外に出れそうな門だって無い。
屋敷へ入るには必ずあの門を通らなければいけないのだ。
先ほどの塀よりは低いが、目の前の塀はカヤの身長よりも随分と高かった。
カヤがそれを見上げていると、翠が門の木を括る紐に手を掛けて言った。
「待ってろ。誰も居ないか確認する」
翠は驚くほどの身軽さで、ひらりと門の上に登った。
タケルが熊で、カヤが猿だとしたら、きっと翠は鹿だ、と思った。
しなやかに大地を駆ける、女鹿。
誰にも穢されない、誰にも掴まえられない、孤独な神の使い。
