いつしか心地よかった春は過ぎ去り、朝目が覚めると薄っすらと汗ばんでいる季節になった。
さらさらとしていた春風もじっとりと湿り始め、カヤの髪は短くなったせいかうねりを帯びるようになっていた。
翠はと言うと、相変わらず公務に追われていた。
鬼のように舞い込んでくる各村からの報告の対応、高官達との話し合い、民との謁見、夏の終わりから建設を予定している水路計画、その合間に占い――――――翠が五人程は必要な量だ、とカヤは何度思ったか分からない。
直接的に翠の公務を手伝える事は無かったため、カヤは出来うる限り世話役としての務めを果たすことに徹した。
翠から頼まれるであろうと予想出来た仕事は、とにかく先回りして終わらせるようにした。
翠の時間を少しでも無駄にしたくなかったのだ。
カヤに与えられていたのは、そもそもが大した仕事でも無かったのだが、それでも翠は毎回必ず"ありがとう"と口にしてくれた。
その目の回りそうな激務の中、良くそのような余裕があるものだ、とカヤは感心せざるを得なかった。
翠とはもう随分長い事ゆっくり話をしていなかった。
"ありがとう、カヤ"
"とんでもございません"
酷い時は、そんな言葉しか交わさない日もある程だ。
(手伝いたいけど、手伝えない。もどかしい)
カヤは、何度も何度もそう思った。
そうやって多忙すぎる翠に、気を取られていたせいかもしれない。
カヤが周りの変化に気が付いたのは、恐らくそれが始まってから随分と時間が経った頃だった。
「ねえ、君」
翠の夕げを台所へ返し終わり、部屋に戻ろうとしていた時だった。
後ろから声を掛けられ、カヤは足を止めた。
振り返ると、そこには男性が二人。
名前は知らないが見たことはある。
確か屋敷の勘定所で働いている男達だ。
さすがは財政に関わる職務に就いているためか、品の良い小奇麗な恰好をしている。
「なんでしょうか?」
唐突に声を掛けられたものの、カヤの中で別段大きな驚きは無かった。
寧ろ『ああ、またか』と思った程だ。
実は最近、やたら屋敷の者達に声を掛けられる事が増えていた。
勿論、気安く接してくれる人間はまだまだ少ない。
それでも、あからさまにされていた陰口や嫌がらせはほとんど無くなっていた。
そしてそれと比例するように、なぜか名前も知らない屋敷の人間がこうやってカヤに話しかけてくる事が多くなったのだ。
「用と言う程でも無いんだけど、少し君と話をしてみたいと思っていたんだよ」
「ほら、なかなか隣国の事を知れる機会って無いだろう?良かったら君に色々と教えてほしいんだ」
上品な口ぶりで、2人が口々にそう言った。
さすが、話し方まで小奇麗だ。
口の悪すぎるミナトに聞かせてやりたい程だ。
とは言え、はいそうですか、と頷くわけにもいかない。
恐らく本日の勤めは全て終わったが、さすがに翠に挨拶も無しに勝手に帰るわけにもいかないのだ。