カヤは気を抜けば落ちてしまいそうな涙を堪えながら、翠の顔を見下ろした。
僅かに開く赤い唇は、不規則に荒い息を吐いている。
この唇が、先ほどあれほどまでの憤怒を吐いたとは到底信じられなかった。
『今すぐに選ぶが良い!この者の命か、それともあの娘か!』
びりっ、と稲妻のように怒りが空気を伝うのを、初めて経験した。
とても怖かった。
激情に駆られた翠を、カヤは確かに怖がった。
それでも、目を開いた時の翠が、あの翠だって良い。
戻って欲しかった。
どうしても、今すぐにでも、戻ってきてほしかった。
(こんなの嫌だ……)
頭の片隅で、自分があの国から解放されたのだと言うのはどうにか理解していた。
いつかその時が来れば、と何度夢に見たか分からない。
きっと自分は泣いて歓喜するのだろうと、来るはずの無い未来を想像しては眠りに付いていた。
それなのに。
それなのに、いざとなれば現実はどうだ?
今カヤの中では、嬉しさも喜びも何一つとして湧きあがっては居なかった。
(こんなの、全然違うっ……!)
自由となる過程で、自分が辛い思いをするのならまだ良かったかもしれない。
いや、きっと多少はそうなるだろうと無駄な覚悟はしていた。
けれど、誰かを苦しみに貶めてまで逃げたいだなんて微塵も思っていなかったし、想像すらした事なかった。
怖くて、辛くて、痛くて苦しい。
こんな思いをするのは、ミズノエが逝ってしまった日以来のような気がした。
まるで針の先で内側からも外側からも突かれ続けるようだ。
狂おしいような激痛の中、カヤはひたすらに翠の顔を見下ろし続けた。
どれほど経ったかは分からない。
ただ、弥依彦の国を出た時は早朝だったと言うのに、洞窟の外はもう真っ暗だった。
「……う、」
本当に久しぶりに、翠の声を聴いた気がした。
「翠様!」
呻き声を出した翠に、カヤが思わず呼びかけると、真下にあった瞼がゆるゆると開いた。
タケルも慌てて近寄って来る。
2人は、固唾を呑んで翠の顔を覗き込んだ。
「……ん……?」
膝の上の翠が、訝しそうに眉を寄せた。
焦点の合わない瞳が何度も瞬きを繰り返しては、ゆっくりとカヤを映す。
「なんだこれ……」
弱々しく呟きながら、翠は体の真横にだらんと置かれていた腕を上げて、カヤの足にそっと触れた。
自分の頭の下にある他人の体温を不思議がっているようだった。
「翠様……?」
更にそっと呼びかけると、ぼやけていた焦点が段々と合ってきた。
のろのろとしていた瞬きもしっかりとしてきて、やがて明瞭になる。
そして、その瞳に完全に光が宿った時、ようやっと翠が眼尻を下げた。
「……ああ、なんだ……カヤの膝か」
緩んだ眼尻を見止めた瞬間、じぃんと強烈な熱が心臓を中心に広がった。
それは瞬く間に全身に届き、カヤの身体を身震いさせる。
嬉しすぎて震えると言う事を産まれて初めて体験した。
「おはようございます、翠様……」
どうにかこうにか言葉を落とす。
カヤのこんな気持ちなど絶対に知らないはずなのに、翠はまるで安心させてくれるかのように柔く微笑んだ。
(良かった、本当に良かった)
喜びに湧く感情の中、カヤは瞬き出来なかった。
一度でも眼を閉じれば、飽和しそうになっている涙が翠の顔に落ちてしまうだろうから。
僅かに開く赤い唇は、不規則に荒い息を吐いている。
この唇が、先ほどあれほどまでの憤怒を吐いたとは到底信じられなかった。
『今すぐに選ぶが良い!この者の命か、それともあの娘か!』
びりっ、と稲妻のように怒りが空気を伝うのを、初めて経験した。
とても怖かった。
激情に駆られた翠を、カヤは確かに怖がった。
それでも、目を開いた時の翠が、あの翠だって良い。
戻って欲しかった。
どうしても、今すぐにでも、戻ってきてほしかった。
(こんなの嫌だ……)
頭の片隅で、自分があの国から解放されたのだと言うのはどうにか理解していた。
いつかその時が来れば、と何度夢に見たか分からない。
きっと自分は泣いて歓喜するのだろうと、来るはずの無い未来を想像しては眠りに付いていた。
それなのに。
それなのに、いざとなれば現実はどうだ?
今カヤの中では、嬉しさも喜びも何一つとして湧きあがっては居なかった。
(こんなの、全然違うっ……!)
自由となる過程で、自分が辛い思いをするのならまだ良かったかもしれない。
いや、きっと多少はそうなるだろうと無駄な覚悟はしていた。
けれど、誰かを苦しみに貶めてまで逃げたいだなんて微塵も思っていなかったし、想像すらした事なかった。
怖くて、辛くて、痛くて苦しい。
こんな思いをするのは、ミズノエが逝ってしまった日以来のような気がした。
まるで針の先で内側からも外側からも突かれ続けるようだ。
狂おしいような激痛の中、カヤはひたすらに翠の顔を見下ろし続けた。
どれほど経ったかは分からない。
ただ、弥依彦の国を出た時は早朝だったと言うのに、洞窟の外はもう真っ暗だった。
「……う、」
本当に久しぶりに、翠の声を聴いた気がした。
「翠様!」
呻き声を出した翠に、カヤが思わず呼びかけると、真下にあった瞼がゆるゆると開いた。
タケルも慌てて近寄って来る。
2人は、固唾を呑んで翠の顔を覗き込んだ。
「……ん……?」
膝の上の翠が、訝しそうに眉を寄せた。
焦点の合わない瞳が何度も瞬きを繰り返しては、ゆっくりとカヤを映す。
「なんだこれ……」
弱々しく呟きながら、翠は体の真横にだらんと置かれていた腕を上げて、カヤの足にそっと触れた。
自分の頭の下にある他人の体温を不思議がっているようだった。
「翠様……?」
更にそっと呼びかけると、ぼやけていた焦点が段々と合ってきた。
のろのろとしていた瞬きもしっかりとしてきて、やがて明瞭になる。
そして、その瞳に完全に光が宿った時、ようやっと翠が眼尻を下げた。
「……ああ、なんだ……カヤの膝か」
緩んだ眼尻を見止めた瞬間、じぃんと強烈な熱が心臓を中心に広がった。
それは瞬く間に全身に届き、カヤの身体を身震いさせる。
嬉しすぎて震えると言う事を産まれて初めて体験した。
「おはようございます、翠様……」
どうにかこうにか言葉を落とす。
カヤのこんな気持ちなど絶対に知らないはずなのに、翠はまるで安心させてくれるかのように柔く微笑んだ。
(良かった、本当に良かった)
喜びに湧く感情の中、カヤは瞬き出来なかった。
一度でも眼を閉じれば、飽和しそうになっている涙が翠の顔に落ちてしまうだろうから。
