「よし、そろそろ大丈夫だろ。来いよ、送ってやるから」

コウが立ち上がり、そう申し出た。
カヤは膝を抱えたまま、また当然のように降ってきた優しさに戸惑った。

「……いや、結構です」

だから、その得体の知れないものから顔を背けた。

「なんでだよ?」

首を横に振ったカヤを、コウは静かに見下ろしてきた。
2人の間には、どこかひんやりとした空気が漂っていた。

「やっぱり、貴方の事を信用できない。一人で帰ります」

きっぱりと言って立ち上がる。
そのまま茂みを抜けて行こうとしたカヤの手首を掴んだのは、コウの手だった。

「いっ……」

ぐ、と後方に手を引かれたかと思えば、一瞬後にはコウに思いっきり頬を捕まれていた。

「お前さあ、警戒心が強いのは結構だけど」

視界いっぱいにコウの顔が広がった。

睫毛が交差しそうなほどの距離にあるその眼は、とても真剣な眼差しをしている。


(こんな暗がりの中なのに)

その瞳の中に、闇を柔く照らす炎が見えた。


「そんなんじゃ、いつか本当にお前の事を思う人間が現れても失う事になるぞ」

輪郭を伴わないその刃は、ぐっさりとカヤの心臓を突き立てた。


そもそも自分の事を思ってくれる人間が、現れるわけが無い。
まず最初に心が痛んだのは、それを自覚したからだった。

その次に、もしも万が一現れたとしても、確かに今のカヤの態度を続ければ誰だって離れて行くだろう、と思った。

ともすれば、自分は底なしの孤独に落ちていって、もう二度と這いあがれないのだろう。

比べてみると、そちらの方が随分と痛かった。

手に入れられない痛みより、一度手に入れた物を失う方が、ずっとずっと痛い。


ぞ、とする予言だった。
男は立ち尽くすカヤの頬から手を放すと、何故だか小さく笑みを浮かべた。

「ま、そうしなきゃいけない状況にあったんだろうな」

ぽん、ぽん。
優しい掌が、カヤの頭を二度撫でた。

ぼんやりとしていたカヤは、その手を拒否する事を忘れてしまっていた。


「ほら、行くぞ。どうする?」

呼びかけられた声に、ハッとして意識を取り戻す。

コウの手が自分に向かって差し伸べられていた。

意外な事にも、長くて繊細な指だった。
月明かりに照らされ、仄かな光を放っている。

カヤは、まじまじとその10本の指を見下ろした。

「拒むかどうか決めるのは、一度受け取ってからでも遅くない」

誘い出すようなコウの声。そして指。


(そう言われると、そうなのかもしれない)

カヤは自分でも驚くほど素直に、そう思った。


「……うん、行く」

そ、とその指に、己の指を伸ばす。

触れれば消えてしまうのでは、と思ったけれど、コウの指はきちんと温かかった。

じわりと移動してくる他人の体温を、気持ち良いと感じる。
そんな事すら感じられる心の余裕を持ったのは、とても久しぶりな事だった。


コウに引っ張られながら茂みを抜け出すと、案外あっさりと指は離れて行った。

「足元、気を付けろよ」

それでもコウは、優しさを纏ったままカヤの前を歩く。
その背中に釣られるようにして、カヤもまた歩き出した。