「原油? 原油って?」

 律歌は聞きなれない単語に首を傾げながら、北寺の後に続いた。
 するとその声を聞きつけたように、突如声がした。

「あはっ。俺、石油王なんだ!」

 よく見ると、黒い水たまりのような中央に、真っ黒に汚れた人が立っていたことに気が付いて、律歌も北寺も驚きのあまり固まった。

「これ、ぜーんぶ、石油! すごいだろ!」

 真っ黒の池の中で勝ち誇ったように笑っている。こぽっ、としぶきが上がり、彼の顔に黒い液体――原油がかかった。彼は水浴びをするように、目を細める。口の端から、どろりと黒い原油が垂れていた。彼が何かを口に入れたと思ったら、シャリシャリと咀嚼音がして、その食べ口から緑色のレタスとトマトの赤色が見え、ようやくそれがサンドイッチなのだと律歌達にわかった。食パンは原油を吸って黒ずんでいた。

「俺はここで、この石油を盗みに来るやつがいないか、見張ってんだ! お前らも、噂を聞きつけて来たのか?」

 ぎろっと睨まれる。

「ちがうわ」

 律歌はそう答えると、北寺に小さく耳打ちした。

「早く行きましょ……北寺さん」
「うん……」

 慌てて自転車にまたがり、足早にその場を立ち去る。犬山のまなざしは、あふれ出る原油より黒くてねばねばしているような感じがした。

 そのあとすぐに一軒、家があった。もう少し進むともう一軒。その前には二人の男が立ち話をしていた。

「やあーこんにちは」

 朗らかに声をかけられる。浅黒い肌の中年すぎの男と、大きなシミのある白髪のおじいさん二人組だ。律歌と北寺がぺこりとお辞儀をして挨拶を返すと、

「こっちから来たってことは……見たかい、あれ」

 と、眉をひそめて言われた。何のことかはもちろん察しが付く。

「はあ……見ました、すごいですね」

 律歌は他に感想も思いつかず、しかしちょっと周辺住民の意見が気になったので自転車を停めて頷いた。

「すごいっていうか、迷惑千万だよぉ。ひどいもんさー。なんとかならんか、あいつ」
「臭いし、汚いし、どうしたらいいんだ?」

 律歌の鼻がやられたわけでなければ、この辺まであの臭いが来ている。

「引っ越すより仕方ないぜー」
「俺らが?」
「だってあれ、庭に石油が湧いてんだろ? 本人は掘り当てたとか得意げに言ってるし、かなわんよ。せっかく掃除しに行こうとしたら、泥棒呼ばわりされてよぉ」
「んなもの、いるかっつーの。なァ~?」

 こんこんと湧き出る原油。これが、前いた世界の常識なら、その土地を石油会社に高値で売って、自分はその金で悠々自適に暮らせるかもしれない。というか、そもそもその悠々自適な暮らしというのが、今のここの暮らしのようなものだが。

 ……そう考えると、石油なんて出たって汚いだけで、迷惑極まりない自然現象なのかもしれない。

「一億円の宝くじが当たったようにはしゃいでてなあ~」

「あいつ大丈夫かな~? 早よぅ引っ越さないと、あんな臭いとこいたら頭痛くなって倒れちまうよなあ~」

 欲を手放してしまえばいいのだ。

「なあー、もう一回様子見に行くかー」
「そーだなあ」

 二人はなんだかんだ心配そうに考え込んでいる。犬山という男にも、優しいご近所さんがいて幸せだと律歌は思った。私達にできることがあったら言ってくださいねと声をかけ、律歌は先へ行く。