「はああ……車……があれば便利なのに」

 人というのはどれほど人力で移動できるのだろう。想像もつかない。

「でもま、その代わり自転車って言ってもマウンテンバイクの最高級品を買ったから! ママチャリとは違うよ!」
「……ふーん……?」

 北寺は準備体操までして、どこか清々しく楽しそうだ。

「サスペンションがあれば、多少荒れた道に出てもなんとかなるかなって。って、あー、りっか乗れるかな。ちょっと練習する?」

 もうすっかり眠気も覚めたらしく、北寺は玄関に置かれていた巨大な段ボール箱に手をかける。側面にある点線部を引っ張って開けると、中には自転車があった。

「練習しないと乗れないようなものなの? 自転車でしょ?」

 なんだかタイヤが太いみたいだけど。

「まあーりっかは初心者だから、ビンディングペダルにはしてないけどさ」
「何……? よくわからないわ。あっ、なにこれ、スタンドがないじゃない。これじゃ倒れちゃうわ。せっかくタダならもっと便利なのにすればよかったのに」
「いやいや、わざと付けてないんだよ重くなるから」
「なんでもいいけど、こんなのでどこまで行けるのかしら」
 昨日遅くまで天蔵サイトを開いて北寺がいろいろ自転車関連のものを発注してくれていたけど、バネやらペダルやらカスタマイズまでしてくれていたらしい。

「ちなみに普通に買おうと思ったらこれ、二百万するよ」
「はあ!? だってこれ、ただの自転車でしょ!?」
「最高級なんだってば! 有名なブランドなんだよ」

 有名な自転車のブランド……そんな定価で商売が成立するとは驚きだ。タダでなければ触れる機会もなかっただろう。それだけのお金があったら、同じ移動手段ならば自分は素直に車を買う。軽自動車でいいから。

 しかし、ここには車だけは売っていないのだ。

「さあて、……と」

 玄関から外へ、一歩出る。燃えるような朝日が、辺りを黄金色に染め上げていた。慣れない自転車にこわごわまたがって、少し足でペダルを踏んでみる。おお、これはなかなか軽やかに車輪が回る。だが何百万円だろうと自転車は自転車で、漕がないと進まないけれど。

「さあ行くわよ!」

 その金色の中に、律歌は一気に車輪を転がした。北寺が後から続く。二人は連なって、無限にも感じる野原を走り始めた。