氷雨は朔の真名を一度も呼んだことがない。

百鬼夜行の主となる者の真名を呼ぶことは忌避とされていたためであり、その習慣に倣って朔が幼い頃は‟坊ちゃん”や‟坊”などと呼んでいて、朔の弟妹たちはちゃんと真名で呼んでいた。

そのことにまさか朔が不満を持っているとはつゆ知らず、能登出発前日、朔が百鬼夜行から帰って来るのを待っていた氷雨は、隣で膝を叩いてきた朧に目を遣った。


「ん?」


「お師匠様は朔兄様たちと義兄弟になりましたよね」


「おう、そうだけどいまいち実感ないんだよな。なんで?」


「そろそろ朔兄様を真名で呼んでもいいんじゃないですか?」


朧は朔が真名で呼ばれたがっていることを知っていて、兄のために画策。

周囲の話では、幼い頃は氷雨にくっついて離れず、それはまるで親子…兄弟…そんな風に見えていたという。

いつもは素直な朔だが何故か氷雨の前ではひねくれた一面を見せるため、渋い表情になった氷雨に身を乗り出しつつ膝に乗りつつ、おねだり。


「ね、一度でいいから呼んでみてくれませんか?」


「いやでもさあ、真名を呼ぶのって勇気が要るんだぞ?気に食わない奴に真名を呼ばれて激高してそいつを殺す案件だって数えきれないほど…」


「朔兄様はそんなことしませんから。ね?ね?」


それでも氷雨は首を縦に振らず困らせるばかりで、そうこうしているうちに朔が帰って来た。

相変わらず返り血ひとつ浴びていないきれいな姿で、まるで散歩から帰ってきたかのような足取りで困り顔の氷雨の前に立って腕を組んだ。


「なんだその顔は」


「私がちょっとお師匠様を困らせただけです。じゃあ私ご飯作ってきますね」


朧が居なくなると、今度は朔からの追及開始。


「なんの話だ、言ってみろ」


「いやあ…うーん…」


幼かった頃朔が我が儘を言う時によく着物の上から腕を掴まれてゆさゆさ揺さぶられた。

久々にそれをされて思わずはにかんだ氷雨は、新婚旅行から帰ってきたらそろそろ呼んでみようかなと考えて揺さぶられ続けた。