朧は夫の氷雨を‟お師匠様”と呼ぶ。

これは幼い頃氷雨から体内に巡る妖気の操り方などを教わったからで、今もその名残で敬語もやめられない。

随分春めいた庭の一角にある花畑で水やりをしていた朧は、障子を開け放った居間で朔と氷雨が地図を広げつつ大量の文の前で話をしているのを見ていた。


「あーこれは緊急案件だな。今夜はここ。ここが早く終わったら、次はついでにここ」


「分かった。ところで雪男、近日中に大討伐をやる。北で燻ぶっている火種を一掃する。お前もついて来い」


「えっ、いいのか?」


「以前から気になっていた集団ではあったんだが、天満(てんま)から気になると連絡を受けている」


――天満。

鬼頭家の三男であり、若くして妻子に先立たれてからは北の地にひとりで住んでいて、朔は密かに天満に会いに行ったり目をかけ続けていた。

氷雨としても天満もまた我が子同然で気にはなっていたため、大きく頷いて散らばった文を集めながら笑った。


「あの出不精が祝言に来てくれた時は驚いたよ。あまり話ができなかったから、一泊させてもらうか」


「ん、頼んでみる」


どこかうきうきしている朔に頬を緩めていると、話を聞いていた朧が柄杓片手に縁側に駆け込んできてなかなか脱げない草履と格闘しながら鼻息荒く、一声。


「私も!行きます!」


「うん、一緒に行こう」


「へっ?いや…危ねえじゃん。絶対駄目」


「危なくないもん!朔兄様、いいですよねっ?」


「いいよ。…なんだお前。俺が決めたことに文句でもあるのか?」


「いや…だけど…」


氷雨の真っ青な目の中に不安の光が揺れていた。

ようやく草履が脱げた朧は四つん這いになりながら氷雨の前まで行って正座すると、氷雨の着物の袖をきゅっと握った。


「お師匠様…駄目…ですか…?」


「…あーもーっ!分かったからそんな顔すんなって。俺が守るから安心しろ」


「!ありがとうございます!」


抱き着いてきた朧にやれやれと肩を竦めた氷雨は、にやにやしながら茶を飲んでいる朔に一喝。


「羨ましいだろ!じろじろ見んな!」