「黒瀬先輩」

「ん? なんだ」

 寮の廊下で黒瀬を見かけた、ゆらぎは反射的に声を掛ける。

 黒瀬先輩に会うのは、少し久し振りだった。

 同じ寮で生活をしているというのに、ここ最近はスケジュールが合わずに、すれ違いの日々が続いていたのだ。

 しかし、声を掛けたところで何を言えばいいのだろうか。

「えっと……」

 言葉に詰まり、ゆらぎは黒瀬から視線を反らす。すると、黒瀬から話題を振ってくれた。

「なんか、久し振りだな。収録は順調か?」

「あ、はい。昨日から個人録りに入りました」

「そうか……」

「…………」

 けれど、会話は長く続かず、二人は廊下で立ち尽くし、沈黙した。

 緑川の一件以来、お互いに彼の話題は避けていた。そのため、何処と無く気まずい空気が漂う。

「まぁ、頑張れよ。じゃ」

 沈黙に堪えかねた黒瀬は、ゆらぎに励ましの言葉を掛けると、足早にその場から立ち去ろうとする。

 自分から声を掛けておいて、何も言えないなんて、我ながら情けない。

「ま、待ってください」

「ん?」

「ウグイス先輩は悪い人じゃない、と……思います」

 考えるよりも先に言葉が勝手に出ていた。
 
 何を言っているんだろうか、私は。

 そんなことを黒瀬先輩に宣言しても、「だからなんだ」と言われるに決まっている。

 でも、言わずにはいられなかったのだ。

 このままずっと、黒瀬先輩とウグイス先輩の関係がギクシャクとしているのは、こちらとしても居心地が悪い。

「うん。知ってる」

「じゃあなんで……」

「こっちにも色々あるんだよ。白石が気にすることじゃない」

 黒瀬の突き放すような物言いに、ゆらぎはたじろぎ、一抹の寂しさを覚えた。

 なんだか、避けられているような気がした。

 私があの時の『シライさん』と、同一人物だと気づいてしまったからだろうか?

 騙すような真似をしてしまったから、黒瀬先輩は怒っているのだろうか。

 どうすれば……。

 いくら考えを巡らせても、黒瀬が納得する言い訳は出て来ず、ゆらぎが思考から戻った時、すでに黒瀬の姿は廊下から消えていた。


「え? 避けられてる? 黒瀬に?」

 収録の休憩時間になり、ゆらぎは緑川に愚痴をこぼしていた。

「ええ、そうです。ずっと様子がおかしいんです」

「んー。ボクは何もしてないんだけど。何? 君は黒瀬の様子がおかしいのはボクのせいだって言いたいの?」

 りんごジュースの紙パックを片手に、緑川は椅子に腰掛け、ゆらぎの言葉に耳を傾けていた。

「そういうわけじゃなくて……」