「ベイリーン家の旦那は、死んだか」
地下水路に、艶のある男の声が響いた。
シドが振り向くと、市街の方角からコツコツとこちらに歩み寄る影が見える。
突然その場に現れた青年は、ランディの元へ座り込んだ。外套のフードの隙間から、どこか見覚えのあるようなグレーの瞳が覗いている。
「まだ自我はあるね。…“一本”で十分だな。」
シドが顔をしかめたその時、青年は下げていた鞄から黒いケースを取り出した。
蓋を開けた中にしまい込まれていたのは小さな注射器だ。
思わず絶句して青年を見つめると、彼は慣れた手つきで手袋をはめ、研ぎ澄まされた針を装着する。
「おい!お前、何して…っ!」
「騒ぐな」
低い声で一喝される。
「これは俺が調合した“抗スティグマ薬”だ。一発打てば吸血欲が消えて、じきに元に戻る」
シドが青年の言葉に目を見開くと、彼はふっ、と小さく笑って言葉を続けた。
「そう警戒するな。これはただの人助け。このままじゃ、君がその手に持った拳銃で、スティグマに堕ちたこの男を撃ち抜くことになるだろうからね」
一瞬で注射器の中の液体がランディの体内へと入り込んでいく。
慣れた手つきで処置を終えた青年に驚きを隠せずにいると、やがてランディの頰に赤みがさした。
どうやら、彼の言ったことは本当らしい。
「お前は、一体…?」
シドが呟くと、青年は立ち上がった。
その首元に見えたのは、紋章の刻まれたピアスだ。
「通りすがりのただの医者さ」
青年はそれだけを言い残して地下水路の闇へと去っていった。煙のように消えた彼にざわつく得体の知れない胸騒ぎがする。
シドは青年の消えていった暗闇を、じっ、と見つめていたのだった。



