パンパンと二回頬を平手打ちしてトイレを出ると、向かいのソファに彼女が座って待っていた。
「あ、すみません、お待たせしてしまって」
「いえ」
そういえば、彼女と二人きりだ。
上手く話せる自信がない。彼女は俺の事なんてもう忘れているかもしれないのに、俺はボロを出さないように必死だ。
「…名前」
不意に、彼女が呟いた。
「え?」
「保明っていうんだ」
今までの敬語もなくなり、俺より15センチも背の低い彼女がまっすぐ俺を見上げて言った。
「…え、今更?」
何を言われるかと思えば、そんな拍子抜けた事を言われたので、肩の力が抜けた。
「お兄ちゃんからもヤスって呼ばれてたし、苗字しか知らなかった。付き合ってた時何で聞かなかったんだろ。変だね」
そう言って彼女は眉を下げて、困ったように笑った。
「ヤスオヤスアキ。藤子不二雄みたい」
「うるせえ」
彼女は俺の事を忘れていなかった。
彼女が昔のように、なんて事ない内容の話を振ってくるので、俺は昔に戻ったみたいだった。
いや、昔はそれでも緊張していた。今の方が、喋れている。
「短い間だったけど付き合ってたのに、私、安尾くんの事ほとんど知らないの。安尾くんだって私の事、知らないでしょ?」
彼女の言葉に、俺は何も返せなかった。
逃げていたのは、いつも自分の方だったから。
彼女は真っ直ぐだった視線を逸らして、言った。
「結婚したんですね。おめでとうございます」
彼女は俺の左手の薬指にある偽りの指輪を見つめながら、小さく微笑んだ。


