世の中にはいろんな事情を抱えた人がいるのだから、どんな人でも働きやすい環境が整えられるべきだとは思う。
それでも実際、子どもが熱を出した、オリンピックの選考会だ、としょっちゅう休まれると、皺寄せがどこかに来るわけで。
不満を感じる人の心まで理屈では抑えられない。

「本社から系列会社の倉庫に移って、たまたま知り合ったササジマ物流の社長に拾ってもらいました。年齢の割に仕事ができないのは変わりませんが、しがらみがない分、気は楽です」

白い吐息が、夜空に溶けていく。
新月なのか、方角のせいなのか、見上げた空に月はなくて、街の灯りに抗った星だけがぽつりぽつりと転がっていた。

「廣瀬さんは、不公平な世の中だなあ、って思いませんか? もしその才能が陸上じゃなくて野球とかサッカーだったら、女の子にもモテて、年俸だってもっともらえたのに」

さみしそうに笑った廣瀬さんは、スーツには不似合いな自身のスニーカーに目線を落とす。

「でも、結局陸上が好きなので」

いつの間にか私もブーツの爪先を見ていた。
その顔を廣瀬さんは覗き込む。

「ほらほら、そんな深刻に考えなくていいんですって」

「でも……」

何かが痛かった。
選手の境遇に同情したのでもなく、自分でも説明し切れない、何か。

「男なんて単純だから、西永さんが応援してくれたら、それだけで気分良くなっちゃうものですよ」

「そうですか?」

「はい。走ってるとき、沿道から下の名前で呼んでもらえたら、有頂天になります」

「じゃあ、『廣瀬くーん!』って呼ばれました?」

「はい」

はあっと地面に落とされた息は、結構量が多かった。

「よく響くバリトンボイスでしたけどね」