「ただいま」

青山にある自宅マンションに帰り着くと、玄関先ですでに良い匂いがした。母の作る夕食だ。
リビングダイニングに顔を出し、キッチンで料理している母にもう一度ただいまと声をかけた。

「翠、おかえりなさい。今日は早かったのね」

振り向いたのは一瞬で母はすぐにフライパンに向き直ってしまった。何かをソテーしているのはわかる。お魚かな。

「おっきい仕事がひとつ片付いたから」
「それはよかったわ。お父さんももう少しで帰れそう。今日は三人でごはんが食べられるわ」

母は嬉しそうだ。平日に三人で夕食を取るなんて随分ぶりだと思いだす。
元女優の母は、今でも充分すぎるくらい美人だ。頑張ってエステに通っているとか有名トレーナーをつけて運動しているとかじゃない。普通のどこにでもいる奥さんでありながら、年相応の幸福な美しさのある人だ。

若い頃の母は、アイドル並に人気のある女優で、電撃引退は多くのファンが涙したとのこと。私は母親似なので、そんな母の武勇伝を聞くと、ちょっとだけ我がことのように嬉しくなってしまう。

まあ、母が幸せで美しさを維持できているのは、父が精神的にも物質的にも彼女を守っているからだろう。うちの父は斎賀とも芸能関係ともまったく関係のない民間企業の部長職だけど、穏やかでいまだに母を大事に大事に扱っている。

夫婦の理想像は私にとって両親だ。
だからこそ、自分自身にはそんな幸せがやってこないことに絶望もしている。
相手がアレだもんね。はあ。