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ガンッガンッ!
「起きろ」
ガンッ! ガンッ!
「はよ起きろ――ゴルァ、33番!」
金属の振動音と怒号の雨が降りしきる。
ペットの持ち運び用ケースに付いたゲージが、まるで台風に巻き込まれたかのように激しく揺れていた。
ケースの中には、金色の髪をした子どもがひとり、飼育されている。地下牢から連れていかれたあと、気絶してそのままケースに突っ込まれたのだ。
暴力的なまでの音の雨は、否応なしに子どもの意識を叩き起した。
(さんじゅうさんばん……? 33……ううん、ちがう。ぼくは、サンカク……じゃなくて、えっと……なまえ……ぼくのなまえは――)
――新道寺緋。
思い出すまでに時間がかかった。
呼んでくれる人がいないからだ。パパもママも、おじいちゃんもおばあちゃんも、友だちもいない。地下牢で支え合った味方すら、いなくなった。
激痛が心身を襲う。少しずつ脳が破壊されていく。
記憶どころか、今日がいつで、ここがどこで、なぜ騒がしいのか、何ひとつつかめない。
金髪の子ども・新道寺は、電池の切れた人形のように空虚だった。
「I'm sorry for the wait」
「Oh……is this the one?」
「Yeah,just one example」
英才教育で培った英会話が、新道寺の耳をキンとつんざいた。芋づる式に他の感覚神経も冴えていく。
肩ほどまである金髪の一部は、頭皮や首を守るようにべったりとへばりついていた。汗と血と、昨晩シャワー代わりに浴びた本物の雨が混じり、腐ったレモンのような臭いを放っている。布を裁っただけのワンピースなような布袋なようなものを着ていても、言わずもがなまぎらわせない。
それでもおかまいなしに、黒服に包まれた腕が、ゲージを剥ぎ取る勢いで中に伸びてくる。夢のように軽やかに引きずり出される。
地面に汚れた膝が擦り、そのたしかな感触ですぐに現実を思い知らされる。
光沢に満ちた、暖かなフローリングの床だった。照明が必要以上に効いているのか、地下牢にいたままの“少女”の人影が反射した。
「立て」
黒装束を着た大男、ボスが、新道寺を見下ろす。そのうしろでもう2人、ボスの仲間が、意地汚く笑っていた。
「はよ立て、33番」
飛行機事故での傷が開きかけていた。にもかかわらず、操り人形のように身体が勝手に起き上がる。
どうせ誰も助けてくれない。
痛くて助けられない。
もう、助からない。
みんなが無事でありますように、生きていますように、そう願うことも不相応な欲望に思えてならない。
自分を守るために血を流した人がいる。強くてやさしい、あのマルが、立ち上がることもできなくなった。これ以上期待するのは、マルに死んでくれと言っているも同然だ。
救いようがない、誰も。
この先ずっと、地獄だ。
「Uhm……ok……」
足をひきずって立つ新道寺に、見知らぬ白人男性が目の色を変えて近づいた。
40代後半だろうか。下っ腹が出て、シャツがはちきれそうだ。まさに飛びかかっているシャツのボタンは何百万もしそうな宝石をあしらっていた。
新道寺は眼球だけをおそるおそるめぐらせる。
デザインの凝った照明、部屋の大半を占める大テーブル、裸の女神の絵画。まるで実家のような豪邸だった。
だから安心できる――わけがない。
なぜなら、おそらくここが、地下牢に監禁した子どもたちを売買するオークション会場なのだから。
ここの主である白人男性・ゴメスは、鼻がこすれるほど顔を近くして商品を吟味した。どうにか聞き取れていた英語が、巻舌の激しい別の言語に替わっていく。
新道寺のこけた頬に、毛むくじゃらの手が触れた。次に肩、手首、腰、太もも……。わざとかと疑うほど怪我をしている箇所ばかりを撫でられ、そのたびに背筋が震えた。最後に髪をすくいあげられ、つと目が合う。
「Hmm……?」
「っ、」
瞬きひとつしない真っ青な目に、新道寺の怯えた顔がきれいに反射していた。
新道寺からはどう見ても、男にしか見えない自分が。
心臓が早鐘を打ち、痛みを響かせる。
果たして気づかれただろうか。
胸にないこと。
下にあること。
そして、人形ではないこと。
ぞっとするほど青ざめた双眸は、頑なに新道寺を見つめ続ける。色素の薄いまつ毛に縁取られた下瞼が、だんだんと盛り上がる。
ほう、と白人男性がこぼした吐息が、新道寺の額にかかった。
「Ah……cute angel」
あ、英語だ。新道寺はそう判断できたあと、その単語の意味を逡巡して瞳孔を泳がせた。
めくられたブロンドの髪の毛が、葉や泥で汚れた肩口にはらはらと落とされる。
新道寺は唇の上に息をまとわせ、恐怖の中にわずかな理性を鎮ませた。
(だいじょぶ……まだ、だいじょうぶ……っ)
知られてはいない。
本名も、出自も、性別も。
名も無ききれいな少女だから、今、生かされている。
新道寺は性懲りもなく生きていたかった。
せめてもう一度、マルたちと会いたかった。
「You are sweet,I want you……ok?」
「なあ! 売ってくれだってさ! ほらな、俺の言ったとおりだろ!? ハハッ!」
「は? まじで売る気?」
「まだサンプルだろ」
「I like it. How many? I want to get it at any cost」
「アッハ、いくらでも払うって! 一個くらいくれてやろうぜ、どうせ欠陥品だ」
新道寺の目に枯れたはずの涙がじわりとあふれる。反射的にボスの黒いコートにしがみついていた。
肌の焼けたボスを切実に見上げれば、にこりと笑いかけられる。新道寺は一瞬虚を突かれ、そして、涙をためて頬をゆるめた。
直後、ボスは新道寺の両肩をつかみ、押し出した。
「33番……あー、ナンバーサーティースリー!」
「サンジュウサン」
「ああ、イエスイエス。33番! ギブユー!」
うれしさのあまり怠けた発音で下されたのは、処刑宣告。新道寺の涙はとうとう蒸発し、枯れ果てた。
「Thank you!」
にこにこで肩を抱いてくる白人男性に、いやだいやだと拒む余力もなかった。今にも倒れ込みそうな新道寺の頭上で、大人たちは楽しそうに金の話をしている。
黒い影を肥やす床に、ポタポタと未熟な血がこぼれた。新道寺の足に、事故の傷が裂けてできた新しい傷口があった。
血を垂れ流す足にガタが来て、前へ傾いた新道寺の体を、ここぞとばかりに白人男性が熱く抱擁する。
「Just this moment,this belongs to me」
私の物だと主張する白人男性は、高らかに、それでいていやらしく破顔する。
「You are “SUN”」
日本語の3の呼び方を気に入ったらしい。
本人が喋らないのをいいことに、ボスたちがこりゃいいっ! と絶賛する。
その日、その金髪の子どもは、新道寺緋でも33番でも、はたまたサンカクでもなく、「SUN」という名前になった。



