物陰に埋まっていた茎のように細い体躯が、しなやかに起き上がった。
豊満な香りを漂わせた金髪が、朝露のような瑞々しい色艶を滴らせる。
血の気のない甘美な顔に、シミやニキビはもちろん、かすり傷ひとつなかった。
はあ……っ!と汰壱は歓喜の息を吐く。
「女王様……!! ご無事でよかった……!!」
葉を縦に半分割いた形の手には、たった今拾い上げたのであろう、姫華お気に入りのティーカップがあった。熱を加えると薔薇の絵柄を浮かべるティーカップの底には、一本の弓矢が貫通している。
ローズマリーの紅茶を味わっていた姫華は、窓を突き破る弓矢に気づくや、ちょうど空になったカップを盾代わりに使ったのだった。
テーブルに置かれたそのティーカップは、まるで一輪の花を生けた花瓶。弓矢の棒の部分に結ばれた紙切れが、散り際の花びらのよう。
(アレが、女王様を狙った凶器ですか)
汰壱は血走った目で弓矢を睨みつけた。
矢の形状、使い込まれ具合、指紋、射角……取れる情報は根こそぎ吸い取って、必ずや犯人の目星をつけてやる。
いつになく燃え盛る怨念は、武士の恰好をしていると怨霊じみたオーラに変貌し、絶対零度の気迫を排出させる。
成瀬はいまだに身震いしていた。汰壱の気迫に当てられたせいもあるが、広く占めるのは恐怖だ。
姫華が無事と知ってもなお、漠然とした恐怖に抗えずにいた。
さっきの光は、きっとその弓矢だ。
撮影していた場所から見てだいぶ近くに感じたとはいえ、それはあくまで空の高さと比べたときの話であり、光の見えた位置から洋館までは実際かなり距離がある。
にもかかわらず、館の主を正確に射程圏内に収められる技術。あまつさえ神雷の看板に平気で泥を塗れる態度。しかし追撃はなく、こちらの反応を見て遊んでいるようにも見受けられる。
犯人の顔を見たわけではないのに、やけに具体的に犯人像を想像できてしまえた。
怖くて、怖くてたまらなくて、だんだんと成瀬の情緒はひしゃげていく。不規則に霞がかる視界に、せめて姫華の色をたどる。
ぽつ、ぽつ、と唇の割れ目から断続的に短い音が滑り落ちた。何かの名称と思しき音の組み合わせ、それにしてはさめざめと思いを馳せた響きだった。
バキッ……。
近くのガラスが折れる音がし、室内は静寂に包まれた。
化学的な熱の及ばぬ、成瀬の冷えきった頬に、突然やわらかな温もりが触れた。あたたかなそれが姫華の手だとわかるとよけいに焦点が定まらなくなる。
ピンヒールを床にしかとつけ、片手で成瀬の顔を自分のほうに向かせた姫華は、そのしなだれた表情を真正面からじっと見つめた。
凛とした瞳は割れた窓ガラスのように光を乱反射させ、汰壱の角度からは涙で潤んでいるふうに見える。
そこにくっきりと映る成瀬は、この世の理不尽さを思い知った幼子の姿をしていた。
姫華は仕方なさそうに口をゆるめた。
「なんて顔をしているの――シカク」
成瀬は涙が浮かぶほど瞠目した。
なんてやさしい声色。
どれだけ凝視しても目には映らない色。その、言葉。
恐怖心がとうとう幻聴を引き起こしたのかと思った。だけどたしかな温もりが、本物であることを伝えてくれる。
“シカク”
もう呼ばれることはないと思っていた。
それと同じくらい、呼ぶなら彼女しかいないとわかっていた。
成瀬に宛てられた、もうひとつの名前。
あの日。
あのとき。
美少女だけが閉じこめられた、地獄の檻の中。閉じこめられた子どもたちが、生きるために宛てた特別なあだ名。
かつて、そこでふたりも、本名を忘れたふりして呼び合っていた。
――少年、成瀬円も、商品のひとつだった。



