――お前なんか産まなければよかった。



それが、成瀬円が憶えている最初の記憶であり、最近の記憶でもある。

家とは名ばかりのアパートの一室で、親とは名ばかりの人間に、何百回、何千回とそう言われてきた。

何がきっかけだったのかはわからない。なにせ、産まれたときからその言葉を刷り込まれている。


そんなんだから売られたのだろう。



『――産んでくれなんて頼んでないっ!』



50インチの液晶画面に、小汚い少年が映る。

糞みたいなそのセリフを、成瀬自身、言ったことがあった。はじめて思い切り怒鳴った、齢4の夜だった。案の定力ずくで黙らせられたけれど。逆に産んでくれてありがとうと心にもない感謝をした朝もあった。純粋無垢(バカ)な子どもだった。

昔のホームビデオを観ているようで魂が抜けかかる成瀬だったが、記憶が正しければ、ビデオどころか写真一枚記録されたことはない。芸能界に入らなければこの先ずっと“成瀬円”の物的証拠は残されなかったであろう。生きていたかどうかも怪しいところだ。


テレビの中の少年は、成瀬とは似ても似つかない顔をしていた。

どれだけ傷ついても蝶よ花よと守られる自信のある顔。それが外野の見方にも影響を与え、万人受けの強みに更新される。来月雑誌に成瀬との特集が載る、モデル仲間・利央の顔だ。

【純真な刃】の初回放送。利央演じる斎藤一の息子・斎藤マナブが、成瀬演じる土方トシヤと出会う前の描写が、ちょうど今、全国に放映されている。


神雷の館のダイニングホールでも、多くの構成員が晩飯にありつきながら、大画面を囲み行く末を見守っていた。

新年会以上の盛り上がり。奇しくも西高の冬休み最終日と重なり、在学勢は解き終わらない課題の山を捨て、そうでない者も解し終わらない改造武器の山を離れ、パンクした頭をすっからかんにしてバカ騒ぎしている。

ドラマ視聴を誰よりも心待ちにしていた汰壱が音頭を取り、ドラマの主役である成瀬を無駄に持ち上げる。室内の熱量は爆速的に上昇し、暖房を消してもなお暑い、暑苦しい。




「観ましたか、ミスターナルセ! ミスターRIOが! いいえ、斎藤マナブが……!」

「あーわかってる、わかってるから。背中叩くのやめれ、痛ぇよ」

「はあ……泣きます。泣いてますボク! 【純真な刃】ラブです! ファンです! 毎週リアタイします!」

「それはありがてえけど……痛ぇってば!」




高画質な画面より届けられる斎藤家の模様は、本来そんなネジの外れた騒ぎ方をする場面ではないのだが。利央がめずらしく何テイクも食らっていた泣きの演技が、まったく台無しだ。

こんなにうるさくても平気で涙をもらえる汰壱は、根っからのオタク気質で、おまけに感情移入のしすぎでIQを低下させるきらいがある。


江戸時代の家屋を再現した斎藤家のセットは、よくある家族喧嘩とは思えぬ荒れ具合だった。空き巣に入られたと言われたほうがまだ納得がいく。手当り次第ぐちゃぐちゃに引っ掻き回され、茶碗や着物など原型をなくした小物も少なくなかった。

そんなところも自分とそっくりだと、成瀬はじんじんひりつく背中をさすりながら思う。親同士の口喧嘩も息子への鬱憤もあとを絶たず、掃き溜めと化した茶の間は足の踏み場もなかった。


しかしそれはあくまで昔の話。今は息子が曲がりなりにも役立っているからか、暴力はないし、床はちゃんと見える。比較的ふつうの暮らしだ。

芸能の稼ぎはいつも知らぬ間に親の手に渡っていて、なのに貧乏は直らず、それぞれ好き勝手やっている。

それでも昔に比べればなんでもふつうに感じられた。




(……なんて。俺のふつうは、ふつうじゃないのかもしれない)




家を飛び出す斎藤マナブの姿に、成瀬は自分を重ねた。
逃げてばかりの人生だった。

2週間前、まだ年を越す前にあった例の潜入捜査のときも、何もせずに逃げたようなものだ。

逃げるしか道はなかった。思い返せばたいていそんな状況だった気がする。たまたま神雷(ここ)がそうじゃなかっただけで。

疫病神にずっと憑かれていた。


噂の白園学園は、成瀬の生涯を総じてもけっして得ることのできない財産の宝庫だった。富、愛、知性、品性。そこにいる誰も彼も恵まれていた。かすり傷ひとつ負ったことないと言われても、そりゃそうだよなと安易に信じてしまえる風格があった。

今さら妬み嫉みなどありゃしないが、なんだろう、胸がせいて苦しい。

よくわからない。あの世界は。




(恵まれていたら幸せなんじゃないのか。なんだってあいつは……)




瞼の裏をかすめる金髪の面影。

前頭葉がツキンと痛む。
色がぼやけていく。



『俺の名は、土方トシヤ。土方歳三の弟だ!』



ハッ、と意識を上げる。

ドラマはいつの間にかトシヤとともにタイムスリップしてきた幼なじみを助ける、クライマックスの戦闘シーンに突入していた。




「WOW! SAMURAI SOUL!」

「主人公参上ってか!」

「っかぁ〜! イカすっすね〜!」

「うわ、イカ焼き食いてえ」

「今度炭火焼きしようぜ」

「まずは酒だろ!」

「いや現実逃避しすぎ。エナドリくらいにしとけ」




生半可な演技をする自分こそ過去の記録にちがいなく、成瀬は手で目元に屋根を作るようにしてうつむいた。手の甲にはらりはらりと黒い前髪が流れ落ちる。

もう何も見えない。

さっき、どっちを思い出していたのか、忘れてしまった。


きりのいいところで本編が終わり、汰壱は腕を突き上げて高らかに拍手した。ドラマに集中しすぎて汰壱の皿にだけまだまだたんまりごはんが残っている。対して隣の成瀬は、あとはサラダのみ。トシヤとマナブの出会いが切り抜かれた次回予告をしり目に、しなった草をロバのようにすりつぶした。




「Oh my god……It was fabulous! セーイチロー殿は本当に、本当に、スペシャルでアメージングなタレントをお持ちですね! So good,good……good! う~~んloved it!」

「そ、それはよかった」

「ミスターナルセのアクションシーン、大迫力でした! ボク、ずっとドキドキで! あのときのキミはリアル侍……いいえ、SAMURAIでした!」

「……ちょっと巻き舌になんの何なん」

「新選組、かっこいいですね……。これは資料を漁ってまたドラマ観返さなければ!」

「そこまでしなくても……」

「ノン! そこまでさせてください。ファンなんです。【純真な刃】の虜なんです。セーイチロー殿の崇高な世界に少しでもお近づきになれるならばボクはなんでもやります!」

「そう……が、がんばれ……。……飯、冷めてんぞ」




汰壱の食事がいっこうに進まず、成瀬は延々とサンドバッグにされている。実際に叩かれるよりも感想に付き合わされるほうが、エネルギーの燃費が悪い。

褒め言葉を浴びるほど聞かされ、成瀬は次第に相槌botになっていった。