黒いブーツが螺旋階段の上へ消え、比例してサンカクのSOSも聞こえなくなる。

ランプの炎がざわめき、陰陽の境目があやふやになる。

看守はハッとして扉の施錠を再確認した。

牢の中は依然、悪夢にうなされている。看守は同情の一瞥を向ける。言葉が通じなくとも、状況はある程度理解しているのだろう。




「ま……マル、ごめ……っ。ごめんね、マル……」




誰もが絶望感に打ちひしがれるなか、いの一番に勇気を振り絞ったのは、シカクだった。

四つん這いでマルに近づき、自分を守ってあらぬ方向に曲がった指を目にすると泣きながら項垂れた。

いつもつっけんどんなシカクでも、この状況ではさすがに罪悪感を禁じ得ない。

何も謝る必要ないのに「ごめん」を繰り返した。だんだん言葉の原型をなくし、やがて嗚咽だけが残った。

泣き声が連鎖していく。ひとりまたひとりと声を上げて泣きわめいた。


しかし、唐突に、音が止む。


マルの上半身が、ふらりと、垂直に起きたからだ。

座らない首をぐらぐら揺らしながら、無理して天を仰いだ。辺りに恵みの雫が飛び散る。




「……行かなくちゃ」




そばにいるシカクでも聞き取れるかどうかの独白だった。

そもそも話せたり起きたりできることに、シカクをはじめ、周りは愕然としている。

マルは鼻血を垂らしながら不規則に息を吸って、吐いて、吸って、血の混じった唾液を吐いて。うつろな視線だけをゆっくりと牢内に流した。子どもたちを順番に見渡す。あれだけ殺られながらも天使の面影はかけらも損なわれていなかった。




「みんな……逃げよう」




しっかりと意志を持った言葉。それは心病む小児にとって、希望ともいえる天啓そのものだった。




「日本の警察が、すぐそこまで、来てる」

「でも、マル……でも……」




でも。そのあとシカクが何を言おうとしているのか、マルは手に取るようにわかった。

もし、警察に出会えなかったら。
もし、ボスに知られたら。

きっとまた、地下牢は血に染まる。

そのとき十字架にかけられるのは、まちがいなくマルなのだ。


専制政治が骨の髄までしみついていた。

ボスたちもそう自負しているから、何の心配もなく遠出できる。

牢には看守がついているし、子どもたちのリーダー的な存在のマルはこてんぱんに痛めつけ、ついでにサンカクという人質を取った。外堀は完全に埋まっている。

アジトを無人にしても、そこは変わらずボスの支配下。まさか逃げようだなんて考えないだろう。




(――とでも思っているんでしょうね、あのクソ野郎)




マルはボスの考えもお見通しだ。現にマル以外はすっかり心を折られている。

ならば逆手に取ってやろう。
もういい子はやめだ。

このときのためにずっとおとなしくしていたんだ。



「今、逃げないと……助からないかも、しれない」




ところどころつっかえ、消え入りかけた声。それでも嘘みたいに静まり返った地下には、一語一句、そこにこめられた思いまでもはっきりと響いた。




「サンカクと、二度と、会えないかもしれない」




その名前に子どもたちの表情がぴくりとこわばった。


逃げなきゃ。

助けなきゃ。

ここにいてはいけない。

今しかないんだ。


マルは拳を握りしめようとすれば、骨が金切り声を上げた。傾いたマルの体をシカクがとっさに支える。いやに冷たく、ぬめっとした感触に、危うく手をすべらせそうになった。




「ま、マル……」

「大丈夫」

「その体で……」

「大丈夫」




右の手と関節がちょっと使いづらいだけ。大丈夫だよ。

マルはなんてことないように言い張る。

自力で背を伸ばし、ほらね、と左手でべたついた前髪をかきあげた。髪の毛を茶色く劣化させた土砂の屑がぼろぼろと降り、額の裂けた部分にいくつか貼りついた。痛覚が信号を出すが、マルはやっぱり気づかないふりをする。