Q. ―純真な刃―



その翌日のことだ。

いつものように井戸に水を汲み入ったマルが、なぜかボスたちとともに地下牢に帰ってきた。


裸足のマルを一顧だにしない歩みで牢屋の前に立った黒いブーツ。今日は3足もある。

人身売買に加担する紅組の残党のうち、現地(ここ)にいるのはボスを含めて3人。かつて紅組で“三銃士”の名で通っていた、筋骨隆々の中年男性だ。

支配者陣営が地下牢に勢揃いするのは、ほぼない。子どもたちだけでなく看守までも戦慄していた。

3人とも全身黒装束を着込み、ただならぬ空気を醸しているのも、この場の緊張をいっそう焚きつけている原因のひとつだ。


3人のうしろに控えるマルは、井戸水を蓄えた樽を両腕に抱え、でくのぼうのようにうつむいていた。

今にもひしゃげそうな赤黒い素足には、数え切れないほどのすり傷がついている。けれど痛がる素振りは見せず、虫の死骸と蝋の成分の蔓延るコンクリートの上でも、直立不動の姿勢を保っていた。樽の水に波紋すらない。

感情を抹消した真顔が、かえって生まれ持った自然美を際立たせる。見ようによっては、本物の商品(フレンチドール)としてタグをつけられる。




「俺らは今日から数日、隣の島に行って闇市の準備をしてくる」

「ポリに顔見られたらまずいしな」

「闇市会場の豪邸なら、いい隠れ家になるだろ」




警察は飛行機墜落の被害者捜索のため、海中や病院周りを中心に、徐々に範囲を広げながら捜査にあたっているらしい。

その対象地域から該当場所の巡察時間に至るまで、当然のように情報を入手しているボスたちは、狙いが自分たちでないことにまず安心した。

だが、万が一があっては困る。とはいえ、また爆発やら殺人を犯し、派手にかく乱しても、なおさら警察の目が厳しくなるのがオチ。

念願の闇市開催は目前。手っ取り早くやり過ごすには、安全な場所に身をひそめるのが最善であった。




「その間、商品管理は任せたぞ」




ボスの黒目がぎょろりと舐めるようにして後方へ突き動かされる。前触れなく捉えられたマルは、そこではじめてわずかに身じろぎした。




「……っ」

「返事」

「は……はい」




目を合わせられないまま小さくうなずく。

直後。


バンッ!!


と、中身の詰まった風船が割れたような筒音が駆け抜けた。

ボスがマルの頬を叩きつけたのだと、周囲が気づくのに数秒の時差を要した。

目にも止まらぬ速さの平手であった。

受け身で耐えたマルの顔は、右半分が赤く腫れ、左半分の透きとおる白肌とのコントラストが皮肉なほど鮮やかで、否応なしに注目を集めた。




「……かしこまりました」




牢の内から悲鳴が上がるのと、マルが粛々と頭を下げるのはほぼ同時だった。

ひれ伏す小鼻からどろりとした体液が滴る。マルは樽を牢の門扉横に置いてから、水洗いではどうにもならない汚れにまみれたワンピースの肩口で鼻下を拭った。真っ赤なてんとう虫が付着する。牢屋と似通った悪臭がすると、一瞬にしてその赤色が醜くなった。




「おい、顔はやめとけよ。一応そいつも商品なんだし」

「いいんだよこいつは。俺のもんなんだから」

「いやいや収益はきっちり3等分って約束だろ」

「は? こいつに限っちゃ前提がちげえだろうがよ」

「まあまあ。最悪、次も管理させりゃよくね?」

「あー、たしかに。頭いいな」

「メンテがいっちゃんだりぃもんなあ」




聞き逃してしまいそうなほどさらりと「次」の話が出て、ただでさえ寒い地下牢が手酷く凍てつくはめになる。

雪を伴わないだけの極寒の冷気が地下をまるごと冷凍し、子どもたちは幽霊顔負けに青ざめる。鉄格子は黒く錆び、ランプの灯火は弱体し、3つの巨大な影に飲みこまれる。

当のボスらは空気の悪さに気づきもせずに、のんきに低俗な会話をひけらかす。黒装束のおかげで防寒できているのか、あるいは、気づいているうえで楽しんでいるのか。どちらにせよ、マルは不快でならなかった。




「てか、豪邸の主さんが商品一個見てえっつってなかったっけ?」

「そういやそうだったな。どれ持ってく?」

「あー……じゃあ、あいつ」




ボスは顎先で牢の隅を指した。

吹けば飛びかねないシーツの上。古くなった血の塊がイルミネーションのごとく散らばったブロンドヘア。

息を殺して横たわるサンカクを、ご所望のようだ。



サンカクは恐怖で顔半分が麻痺し、声らしい声が出ない。せめてもの意思表示に、オイル漏れした機械みたくガクガクと首を左右に振った。

代わりに声を上げたのはマルだった。ビンタされても反応の薄かった表情に、ぐっ、と加減知らずの力が入る。




「あっ、の……」

「あ? なんだよ」

「ぁ……えっと……あの、さ、サンカク……あ、いや、さ、33番は、その……まだ、不調で……持っていかれると……」

「あー、いい、いい」

「でも……傷が、まだ……」

「わかってねえな。最初から最高傑作を見せてどうすんだよ。最初はこんくらいで納得させんのが商売のコツさ」




もっともらしく説き伏せ、ボスは懐に入れていた特注の鍵で牢を開ける。