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辺りに空を遮るものがない、開けた一帯に、おごそかな石造が等間隔に林立する。
緑の入り交じる夕陽に焼かれた石の表に、それぞれ異なる達筆な文字が彫られている。
その中のひとつ、「風都」の文字に、白い煙が吹き上がった。
「監督、桜子さん……おひさしぶりです」
成瀬は学校帰り、マネージャーに送ってもらいこの霊園を訪れた。そのマネージャーはというと、急遽仕事の連絡が入り、車に留まっている。
えんじ色のブレザーに、勇気から借りパクしたマフラーを巻いた成瀬は、鼻をずびずび鳴らしながらカーネーションを供えた。白、ピンク、青、紫の鮮やかな彩りが、手入れされた墓を飾り立てる。
ここに来る前に立ち寄った花屋で、墓参りと言葉にすることができず、お礼をしたい人がいると遠回しに言ったら、その色とりどりのカーネーションを勧められたのだ。
「今日は、報告があって……来ました」
閉園間近の静けさに、自分の声が一音逃さず跳ね返る。妙に緊張した。
「ドラマ【純真の刃】、撮影再開するんですって」
カラスの鳴き声がこだまし、怯んで声が上擦ってしまう。泣いているわけじゃないからと、口に出して言い訳をした。その場にそれを聞く人も、つっこむ人もいない。
撮影が中断してから放置していた髪の毛は、すっかり白金に戻ってしまった。炙った線香のように変色した毛先を、ごまかすように指先でいじった。
「本当は打ち切りになりかけたんだけど、スタッフみんなで押し切ったって聞きました。3ヶ月……いや2ヶ月くらいか、その制作期間で風都監督メソッドはしっかり学んだから、最後までやらせてくれって」
視聴者からの要望も多かったことが最終的な決め手だったらしい。
放送再開は、来月、3月下旬。最終章を2話に分け、二日連続でお届けする特別編成だ。さらにその前日には、追悼の意を込め、これまでの総集編を二時間スペシャルでお届けすることが決まっている。
撮影に先んじて、意識合わせを兼ねた稽古が始まった。学校と仕事の合間を縫って稽古に参加する日々。毎日ハードで、休む暇もない。良くも悪くも悲しみに暮れる時間すらない。さっきマネージャーに来た連絡も、稽古や撮影のスケジュールの相談のようだった。
墓参りのあとも、利央と雑誌撮影してから一緒に殺陣の稽古に行く予定だ。主人公・土方トシヤが新撰組として戦い抜くラストを描くための重要な練習時間だ。
明日明後日あたりには美容院で黒染めしてもらい、いつでも撮影できる状態にしておきたい。
忙しくてもやるしかない。やり遂げたい。
今も成瀬の背には、ナイロン製の袋に鞘のように仕舞った竹刀がある。
「みんなが学べていても、主演の俺が足引っ張ったらだめっすよね。俺、演技がんばってみます。監督がいなくても、きっとなんとかしますよ」
……なんとかできるかな。
弱音をつぶやくモノローグは、現実世界には反映されない。それをいいことに口角をきゅっと上げた。ななめがけした竹刀用の袋の持ち手を握りしめながら。
「ありがとう、監督。桜子さんも。本当に……ありがとうございました」
信じられなくてごめん。恩を返せなくてごめん。
後悔は募ってやまない。けれどそれ以上に積み重なった感謝がある。
裏表なく、やさしい世界を見せ続けてくれた人。実りある愛が実在することを教えてくれた人。彼らに出会えたことが、成瀬の人生最大の幸福だった。
「俺が――二代目“侍”」
監督が遺してくれた二つ名。成瀬は胸を張ってその身に刻み込む。
「あなたの仇を取ると約束します」
顔つきは怖いほど真剣でありながら、肌はまだらに赤らんでいた。
すると突然、ガサッと音が響いた。まさか幽霊か、いやいやマネージャーだろう。そう言い聞かせながら成瀬は、二度目の音を捉えた瞬間、竹刀を袋から抜き取った。
横の小道に向かって振りかぶった竹刀は、静寂に衝撃波を与えるすんでのところで急停止した。
「Good reflexes! 冴えた動きでしたよ、ミスターナルセ」
「え……?」
「レッスンの成果が出ていますね」
「た、汰壱……?」
小道から現れた汰壱に、成瀬はおろおろしながら竹刀を片付けた。
白薔薇学園の校章が入った淡いクリーム色のジャケットに、毛玉ひとつないダッフルコート。普段より内側にくるんとおさまった栗色の髪。結婚記念日のディナーデートのために準備した風都を彷彿とさせる、絵になる立ち姿だった。
「な、なんで、ここに……?」
日程を示し合わせたわけではない。何かの記念日でも一般的な法事の日でもない。けれど成瀬は単なる偶然とも思えなかった。
「……決戦前、ですから」
汰壱は両手に抱えた大輪の菊の花を、カーネーションと交えて生ける。この広い園内のどこにいてもすぐに見つけられる華やかさだった。
白い花びらがこぼれ落ちそうなほど開いた一輪をすっと抜くと、「風都」の名の前にかしづくように添えた。
汰壱は手を合わせたあと、しばらく天を仰いだ。腫れた雲が通り過ぎると、深呼吸をして墓石を見つめ直した。その丸くつぶれた瞳には、煤けた陽の光を映したままだった。
「Don't worry. 大丈夫ですよ、セーイチロー殿、サクラコ。安心してくださいね。ボクもマミーもパピーも、おふたりの愛するユラも、悲しんでばかりではありません。みんな、少しずつポジティブに変わってきています」
風都家の一人娘、由楽は、はじめ汰壱の家で面倒を見る予定だったが、両親の過ごした日本にいたいという本人たっての希望から、桜子の妹に引き取られることになった。
葬儀のとき、由楽の精神状態はかなり危うかったが、汰壱の両親が付き添った甲斐があり、最近は枕を濡らしていない。
汰壱自身も、風都監督作品の鑑賞を一日一作品までにおさめられている。訃報を聞いた日は、ひさしぶりにマンションの貸部屋に帰り、丸一日ぶっとおしで再生し続けていた。
「そう、ポジティブに……がんばっています。でも……それはきっと、事故だと思っているから、できていることで。人為的に起こされた殺人事件だとわかれば、復讐心に囚われかねません。うちのマミーは特に」
風都誠一郎名義の家が売られ、由楽は桜子の妹夫妻の元へ引っ越し、汰壱の両親はアメリカに戻った。
新しく始める日常。それでもまだ、汰壱以外は誰も、あの件のニュースを見ることができない。ましてや汰壱の母――風都誠一郎を親愛する実の妹――は、交通事故というキーワードを目にしただけで目眩を起こすほどだ。
明らかに異常な日常。ふつうが何か、わからない。
「だから、真相はナイショにしちゃいます」
汰壱は困ったふうに首をすくめて言った。
「隠しとおすことはできないでしょうけれど、できるだけ言及を避けて、あの悲劇を遠ざけようと思うんです」
(……同じだ、俺たちと)
成瀬の感情が汰壱のと共鳴する。
人身売買の商品扱いされた被害者の子どもたちが、解放された今、別々の道を歩んでいる理由と同じだった。
不幸がよみがえってしまわないよう、早く、多く、新しい幸せを見つけたい。でなければ心が耐えられない。
ふつうに生きられるまでが途方もなく険しいのだ。多少の回り道でも、ゆるやかで歩きやすいほうが断然身体にやさしい。
(まあ俺の場合は、最終的に荒療治だったけど)
ふつうに生きて、ふつうに暮らしたい。
被害者の中で成瀬は特別その念が強かった。
産まれたときから冷遇され、ふつうを知らずに過ごしてきた成瀬だからこそ、マルやサンカクの犠牲を重んじて、生にしがみつこうとした。
しかし気持ちに反して体は進まず、ただ今日を消費するばかり。幸せなんか明日にも昨日にもなかったし、やがて探す気も失せた。
……あの日。
遠ざけていたかつての少女と引き合わされた、あの瞬間。
まさに天変地異。
成瀬の世界が変わった。ふつうとはかけ離れてしまっても生きていられた。じくじくと脈を打つ鈍痛が、生きていたい理由になった。
「これが正解だとは思いません。それでも……セーイチロー殿もサクラコも、ボクと同じ気持ちならうれしいのですが……」
いつになく気弱にひとりごちる。だがすぐに気丈に墓石を見据えた。
「復讐については、ボクが代表して請け負います」
はっきりと言うことではない。が、成瀬にとやかく言う資格はない。
だって、
「……俺もさっき宣誓した」
「んふ、気が合いますね」
ふたりは同じ境地にいるのだ。
「仲間がいるのでボクは堂々と戦えます」
線香の匂いが白い花びらにしみていく。
汰壱のかじかんだ鼻先が、隣の成瀬に向いた。
「仲間というのは、キミも入ってますよ、ミスターナルセ」
言うまでもないかと思いますが、と付け加え、その花々を真似るようにほころんだ。
相反して成瀬はびくりと喉仏を引かせる。仲間。直に響くその単語に慣れていないせいだ。
――お前なんか産まなければよかった。
ずっと、望まれない子だった。
使えるのはせいぜい端正な容姿だけ。名前も中身も必要なかった。
空っぽだった。
空洞だからこそ、些細な言葉が響きやすかった。
「これもナイショにしていたことなのですが……前々から女王様にお願いされていたことがありまして」
もったいぶった口ぶりが、成瀬の胸を高鳴らせる。
「モデルデビューしたミスターナルセについて、情報があったら逐一報告するように。そして、プライベートなことはひとつ残らず公に晒さないように、と」
「え……? 俺の、こと……?」
「SNSを定期的に見回って通報したり、ホワイトハッカーの真似事もしたりしたこともありました。所属事務所が大きいこともあって、ボクが直接手を下すことはそう多くありませんでしたが」
――いい? あなたは最初から守られて然るべき存在なのよ。
前にもらった姫華の言葉が、何重にも織り重なり、成瀬の身体に響く。響いていく。どこまでも。消えることなく広く行き渡っていく。
成瀬が孤独だと思い込んでいたものは、ただの物陰に過ぎず、血溜まりのようにも見えるそれは、他でもない彼女の影だった。
「そうして監視と報告を繰り返していくうちに、ボク自身、キミのファンになっちゃっていました」
「……俺の知らねえとこで、面倒かけたな。ごめ」
「あ、謝らないでくださいね? ボク、うれしかったんですから」
「……なんで」
「キミを知れたこと、出会えたこと。この人がボクの尊敬する女王様や侍に愛された人なんだなあって。……Yes,I was really happy」
汰壱はしみじみと噛みしめる。
「女王様が指名手配の懸賞金を積んで白園学園に入ったのも、キミのように大事な人を守るためなのでしょう」
「え……」
彼女はいったいどこまで背負ってくれていたのか。
会わずにいるほうが彼女に負い目を感じさせず済むと結論づけていた過去の自分を、成瀬は恥ずかしく思った。
会わずにいる間も彼女はずっと、自分の幸せをあと回しにし、陰ながらみんなを見守っていたのだ。
彼女も、守られて然るべき存在に変わりないはずなのに。
「ボクも守りたいです。愛するファミリー、フレンズ、マイセルフ……みんな、みんな」
「……俺も」
「仲間と一緒だとなんでもできそうな気がしてくるからふしぎですよね。……ボクは本当に恵まれました」
(…………俺も)
口には出さなかったものの、成瀬も小さくうなずいた。
生まれてはじめて抱いた感想だった。
聡明な白薔薇学園や上層の白園学園に通える身分も才能もない。おまけに肉親はろくでもなく、金のために入った芸能界は裏表の差が激しすぎる。神雷も例外ではなく、人並外れた変人ばかり。
だけど……いや、だから、なのか。
ゆっくり、少しずつ、体重計には乗らない重みが、成瀬の身体を満たしていた。すべてが身体にいいものではないだろう。それでも、悪いことばかりではなかった。
そう認めるまで時間がかかってしまった。
もう空っぽのふりはできない。
「セーイチロー殿やサクラコも空の上から見守ってくれています……よね」
「ああ、きっと」
「ボク、もっともっと強くなれそうです」
成瀬と汰壱は願掛けを兼ね、ふたりそろって墓に手を合わせた。
「次にここに来るのは、すべてが終わったあとですね」
「だな。明日……がんばらねえと」
「No problem. トラップはすでに発動しています」
天才的な鷹の目が、遠くの山々を霞ませる薄暗い雲を見通す。雨の匂いを含んだ雲は、音もなく家の立ち並ぶ町のほうへ忍び寄り、包囲していく。
もはやすでに袋のねずみだ。



