気づいたときには後頭部を押さえつけられ、顔を正面から擦りつけられていた。

白い髭が肌を刺す。

湿った何かが口腔に侵入した。砂利道で寝たミミズのようなものが、歯の裏を執拗に這いずり回る。それがゴメスの舌だとわかったころには酸欠を起こしかけていた。




(なん……なに……? なにが、おこって……?)




家族とした親愛のキスとは別物であろうことは、幼いながら勘づいている。

だが、なぜ、自分にそれをするのか。


ゴメスの舌が糸を引いて離れていく。新道寺は呼吸を急いだ。

ひりひりとした目の縁から眼球だけを持ち上げ、ゴメスを見やる。彼はとろんとした表情でハッハッと息を浅く吐いていた。




「SUN……my angel. I'm so glad……you're feeling better」




ゴメスは偽りなく、新道寺の退院を喜んでいる様子だった。




「I can finally love you」


(やっと、あいせる……?)




理解できず間の抜けた小さな唇に、ゴメスは再び入りこんだ。

新道寺の金髪を片手で梳き、不意にぐっとうしろに引いた。その衝撃で新道寺の顎が開くと、ゴメスが食べ尽くしてしまう勢いで隙間を覆った。ゴメスの生々しい息遣いが、ぬるぬると喉の先っぽをうごめく。

深まる青の瞳が、新道寺の涙を恍惚と見守っていた。キスしながら新道寺のブラウスのボタンを上から順に外していく。




「っんぐ……っ!」




新道寺は思いきりゴメスの舌を噛んだ。ゴメスの顔が反射的に引っ込む。




(ラブ? これが? ちがうよ、こんなの、ぼくのしってるあいじゃない……!)




愛とは常にやさしくて、温かなものだった。心が安らぎ、うっかり眠ってしまいそうになるくらい。

でも今は苦しくてたまらない。全身の血の気が引いて、意識が朦朧とする。

絞殺と何がちがうというのか。




「ミスターゴメス、やめて、おねがい……っ! Please stop……。ぼくの、話を……Please listen……please……」




新道寺はその場にうずくまる。よだれが顎を伝った。どちらのものか、もはやわからない。拭おうとすれば、ゴメスが先に舌で舐めとった。

ぞっとして床に尻をつけたまま後退する。




「SUN,don't move」




ゴメスは臆面もなく笑う。

ここにいたら、きっとだめだ。新道寺の体は脳の信号より早く逃げていた。階段のほうへ右手を伸ばす。



直後――ザシュッ……!



右の二の腕に痛みが襲った。おそるおそる確認すると、白いブラウスの肩口が破れ、その中の皮膚が裂かれていた。じわりと赤色がにじみ出す。

遅れて、後方でカラン……と金属音が滑った。

頭がさっと冷えていく。




「み、ミスター……ゴメス……?」




階段下に落ちたカッターナイフに、真っ赤な血が付着していた。




「な、なん、で……」




見上げたゴメスは、ろうそくに火をつけるように頬を紅潮させた。唾液と血をまとった舌先で自分の唇を舐める。ナイフのかすった新道寺の右腕をわざとつかみ上げ、悲鳴もろとも平らげた。

生臭い味が新道寺の神経を犯す。新道寺は必死に押し返すが、ゴメスはびくともしない。その豊かな体つきでいとも簡単にベッドまで運んだ。


白いシーツに、湯気が立ちそうなくらい赤いシミが広がった。

新道寺の上に馬乗りになったゴメスは、新道寺の右腕に爪を立てる。傷をほじくり返され、泣き喚く新道寺を、いとおしそうに眺めていた。さらに、チュッとリップ音を鳴らして涙を吸い取る。

ゴメスの鼻息が荒く、新道寺の眼球はみるみる乾いていった。


仮に、これが本当に愛ならば。
いったい何の愛なのだろう。




(まさか……ぼくを、いまも女の子だとおもってる……?)




それで血迷った真似に出たのか。少女でなければ、猫吸いとかそういう類かもしれない。仕事の疲れもあって、その愛とやらが暴走しているのだ。

そうだ。そうにちがいない。

そうであってくれと、新道寺は藁にもすがる思いで訴えかけた。




「ぼ、ぼくは男だよ……I’m a male……!」

「I know」




ブチブチブチ……ッ!

一縷の期待とともにブラウスのボタンを引きちぎられた。


胸があらわになる。痩せた筋肉に浮いたあばら骨、そしていやに白けた胸は、生物学上の特徴をそれでも顕在させている。

心臓の在処をあけすけに教える胸に、ゴメスはしわくちゃな顔をうずめた。




「I love you」




たっぷり深呼吸をしながら言う。




「I love you……so I want to break you」

「あいしてるから、こわす……? なにを……なにをいってるの……ミスターゴメス……っ」




裸の胸に鳥肌が立った。

心臓が警報を鳴らす。それに耳を澄ましたゴメスは、ピアノを調律するかのような動きで小さな上半身をまさぐった。

胸下に残った傷跡をぺろりと舐めると、ニヤリと笑って拳を振り下ろした。




「っうぐぁが……っ! ゲホッ……や……っ、ひ……やめ……て……」




傷跡が派手になる。ゴメスはおもしろおかしく肩を揺らし、もう一回強く叩いた。

喉を大きく開いて叫ぶ新道寺の口から、廃れた噴水のように血反吐がこぼれる。




「ぅえ……っ。や……ぃ、やだ……」

「I love you,SUN」

「No……ノオォォッ……!」




アイラビューアイラビュー、と見当違いな返事が続く。野生の猿のように理性をなくし、とうとう新道寺のズボンにも手をかけた。

全裸になった新道寺を隅々まで見渡すと、少年である理由をひとつひとつ丁寧に確かめた。

外側を堪能したら、次は内側をえぐって遊ぶ。ベッドはどんどん赤く染まっていく。

生身の体を改造されているようで、新道寺は怯えて黒目を上に飛ばした。




「Oh my god……so beautiful……」




脂肪をためた下腹部が、唾液と歯型にまみれた平らな体の上で踊る。

脂っぽい汗の汚水を飲ませた細い首を、ねっとりした丸い手が絞める。おもちゃの電源が落ちる寸前を見計らって離れ、そして今度は、幼くもできあがった顔面を左右で挟んだ。

一生逃がさない、と金糸のかかる額に唾をつけた。




「You are mine. Together forever……」




新道寺の意識はとうにうつろで、拒む力もない。




(ボスたちとはちがう……なんて、おもってたぼくは、バカだったんだなあ……)




結局、ゴメスも、人身売買に興じていた側の人間なのだ。

同じ人間を本気で商品扱いし、身勝手に消耗する。相手は商品だから意思はいらないし、あっても聞かない。

思い返せば、ゴメスが意見を聞いたことは一度たりともなかった。


ふてぶてしく肥えた欲望が、地獄を出た新道寺にはたまたま親切に映ってしまった。

ここも地獄に変わりなかったのに。


声は、届かない。届いたためしがない。
マルたちの話は、きっとできない。


いや、それでよかったのだ。教えていたら、奴隷が増えていた。

紛れもない少女を、犠牲にせずに済んだのなら、それは幸せなことではないだろうか。

地下牢のみんなが、今、どこで何をしているのか……生きているかさえわからないけれど。




(ぼくは……生きてるって、いえるのかな……?)




“新道寺緋”は、もうどこにもいない。

そんな気がした。

飛行機が堕ちたその日から。