「エミヤ」
誰かが名前を呼んでいる。
小さな声だ。心なしか震えているようにも聞こえる。
「目を開けてくれ、エミヤ……」
甲冑の冷たい指が、エミヤの指をぎゅっと握った。
「エミヤ……」
その声に導かれるように、エミヤはそっと瞼を押し上げた。
蝋燭が灯された薄暗い天井は、見慣れたものだ。
(アルマドの部屋……)
その部屋のベッドに寝かされている。
ハーブの香りがした。その香りが、ぼんやりと靄がかっていたエミヤの頭をはっきりと覚醒させる。
横を向くと、アルマドの顔が見えた。いや、兜の顔が、エミヤをじっと見ている。
「アルマド」
思わず笑ってしまった。兜に一瞬ぎょっとしたが、その兜が微動だにせず見つめてきていることが可笑しい。
「エミヤ……」
エミヤの笑顔を見てやっと呼吸ができたと言わんばかりに深く息を吐きだして、アルマドは更に強く手を握った。少し痛かったが、振りほどこうとは思わなかった。
「私、どうしたの?」
尋ねれば、アルマドは迷うような仕草をしたあと、後悔を滲ませた声で話をした。
「倒れたんだ。医者には、急激な生活の変化が原因だと言われた。外にも出さず、不健康な生活をさせていた僕の責任だ……。すまない」
まるで今にも窓から飛び降りんばかりに沈んだ声で語るアルマドに、エミヤは吹き出した。
笑うエミヤに戸惑う様子のアルマドの兜に、そっと手を伸ばす。
ひんやりとした兜の感触が、今は物足りない。できるなら、その髪を直接梳いて撫でてあげたかった。
「アルマドは相変わらずお人よしだなあ……。そもそも私が君の寝室に忍び込まなければ、こうはならなかったんだよ。これはアルマドの責任じゃない。でも、君はきっと自分を責めるだろうから、おあいこってことにしよう」
事の発端は、金に目が眩んだエミヤの軽率な行動だ。
手引きしたアサロ侯爵も悪いが、そもそもアルマドに迷惑しか掛けないようなこんな杜撰な儲け話に乗ったエミヤが悪い。楽して妹たちの結婚資金を貯めようなどと思ったのがいけなかった。大体、この程度で倒れてしまう自分にも問題がある気もする。
「だから、」
そんな重い鎧を着込んで、国を背負って、更にはエミヤまで背負いこもうとしなくていい。
「けれど、君は実際に倒れてしまった。僕は君を傷つけるつもりはなかったのに、こんなことになるなんて」
(ああ、後悔してるなあ)
そんな風に彼を苦しめる存在にはなりたくなかった。
エミヤは困ったように眉尻を下げて、アルマドの言葉を聞いた。
「僕が昔を懐かしんで、君を長く傍に置いたのがいけなかった。もっと早くに、解放するべきだったのに」
おかしなことを言い出したな、とエミヤは思った。
解放するもなにも、エミヤは囚われたつもりなどない。
「エミヤ、君の体力が回復し次第、家に帰れるように手配する」
「やだ」
アルマドの言葉に被せるように、エミヤは言い切った。
あまりにはっきりと拒否され、アルマドから戸惑う気配がする。
「エミヤ、でも――」
「私、アルマドに捕まったつもりなんて微塵もないよ。解放されたいなんて思ってない。アルマドを責める気もない」
エミヤは言いながら、ゆっくりと起き上がった。アルマドは戸惑いながらも、律儀にエミヤの背を支え、起きやすいように手助けをしてくれる。
その鎧の手はとても冷たいのに、とてもあたたかい。
「けれど、実際には体を壊して――」
とはいえ、手助けをしながらもアルマドは引こうとしない。
エミヤはアルマドの手を握り返した。
上体を起こして、やっと目線が同じ高さになる。
「ならこれから気を付ける。これくらい大したことないよ?太陽を浴びてちょっと運動すれば、すぐ元気になる」
恐らくアルマドの目があるだろう位置を強く見つめて、エミヤははっきりと口にした。
「私は、まだもう少し、アルマドと一緒にいたいと思う。まだ話し足りないし、もっと君のことを知りたい。君は?」
問うて、もし一緒にいたくないと言われたらどうしようかと思ったが、アルマドは声をなくしたように黙り込んでしまった。
「……昔を懐かしんでるのは私も一緒だよ。でも、それだけじゃない。私は、今のアルマドも知りたい。ちょっと時間が空いちゃったけど、だからこそ、もう一度友達になろうよ」
黙り込んだ今がチャンスと、エミヤは畳みかけた。
アルマドにこの気持ちが伝わるように、握った手に、ぐっと力を込めて。
国王に対して不敬ではないかとか、ほんの少し頭の片隅で考えて。
アルマドは答えない。
エミヤはじっとアルマドを見つめ、どれだけ時間がかかろうとも彼の言葉を待つつもりだった。
けれど終止符は、意外なところで打たれた。
「お前の負けだなぁ」
アルマドの背後から、ぬっと男が現れたのだ。
エミヤは思わず驚いて、ベッドの上でのけぞる。男は長い髪を後ろで一つにくくり、丸眼鏡を掛けていた。歳は五十代くらいだろうか。ちなみに眼鏡は高級品である。
「驚かしてすまんね。俺はエン。こいつの鎧の専用技師だ」
エンはくいっと顎をしゃくり、アルマドを指す。
国王であるアルマドをこいつ呼ばわりとは、ただ者ではない。
エミヤは以前、アルマドとの会話で出てきたエン技師を思い出した。
「どうやらお前の負けのようだぞ、アルマド。観念して彼女に健康的な生活を約束したうえで、城での生活を提供しろ」
それはまさに鶴の一声だった。
アルマドはその言葉を受けてゆらりと立ち上げると、ふらふらと暖炉前のソファに座り込んでしまった。
(私をエン技師を対面させたまま別の場所へ移動するなんて、どちらのこともちょっとは
信用してくれているのかな……)
アルマドは暫く座り込んで考えているようだった。
とても疲れているようである。
自分の主張ばかりで、追い詰めてしまっただろうかといよいよエミヤが心配になったころ。
「温室――」
ぼそりと何か喋った。
「……温室までの移動なら、許す」
なんと外へ出る許可が出た。
「なんだ、しけてんな。もうちょっと豪快に許せよ、オウサマ」
そうからかったエンが、兜の向こうからものすごい視線で睨まれている。
しかしエミヤは、〝温室〟という単語に驚いて思わず口を開けた。
〝温室〟。
そこは、ある意味アルマドの命綱の場所だ。
そこを託すということは――。
アルマドが立ち上がり、エミヤをじっと見た。
「僕の温室の世話を、君にお願いする」
その兜の向こうでどんな顔をしているか見たい――この時ほどエミヤは、そう強く思ったことはなかった。