暫くすると、倦怠感も汗も収まってきた。それを見計らって、アルマドはひょいっとエミヤを横抱きにして暖炉前のソファへと寝かせてくれた。
換気のため開けられた窓から、身を刺すような冷たい空気が流れ込んでくる。
それに身を震わせたエミヤに柔らかなブランケットを被せると、アルマドはエミヤの顔を覗き込んだ。
「まだすぐには動かないで。気分が悪くなければ、少し話をしよう。吐き気がしたらすぐに教えて」
一応甕をもってきておこう、と国王らしからぬ甲斐甲斐しさである。
差し出された小さなゴブレットの水を飲み干すと、エミヤの気分はずいぶんと良くなった。
横になったまま、すぐ傍に腰かけているアルマドを見つめる。
「どうして君の部屋にあんなものが置いてあったのか、教えて」
エミヤが言うと、アルマドは暫く押し黙ったあと小さく溜め息を吐いた。
「聞いてもあまり楽しい話ではないけれど……」
そう一言断って、アルマドは口を開いた。
「僕に腹違いの兄がいることは知っている?」
問われ、エミヤは小さく頷いた。
このアシドニア国では、王が側室を持つことも珍しくない。
アルマドの父である先代国王にも正妃の他に三人の側室がいた。それぞれの側室に一人ずつ子がもうけられたが、数年後に正妃が身籠りアルマドが誕生したのだ。正妃の子であるアルマドが王位継承権第一位であり、アルマドが健在する限り、兄たちへ王位が転がりこむことはない。
「側室たちは我が子を王位に就かせるためになんでもした。まだ言葉も話せないような僕を人を使って攫おうとしたし、食事に毒を混ぜたりもした。鹿狩りの時には事故に見せかけて崖から尽き落とそうとした。けれどそうした甲斐もなく、僕はしぶとく生き延びて、父王が亡くなってすぐ、王位を継いだ」
先王は急死だった。本来なら成婚してから王位を継ぐはずのアルマドは、急かされるように玉座に導かれ、王となったのだ。
「そもそも、十二を数える頃には甲冑を着込んでいたから。素顔を知る者などいないとされる王に嫁ぎたがる女性はいないよね」
そう言いながらも、アルマドはそんなこと全く気にしていないようである。
「……寂しくない?」
誰か信頼できる人がいれば、寄り添うこともできるだろうに。
エミヤには妹たちがいた。それこそ喧嘩もするが、お互いに支えあって生きてきて、寂しいなどと思う間もなかった。
(アルには、そういう人はいなかったの?)
エミヤの問いに、アルマドは即答した。
「寂しくないよ。いつ僕を殺すのかと相手を疑いながら共に過ごすよりは、ずっと気が楽だ」
眩暈がした。
そんな殺伐としたことを、そんな明るい声で言わないでほしい。
「今君が嗅いでしまった毒入りのワインも、兄から寄越されたものなんだ。別の者からだと装ってはいたけどね。運よく僕が飲んで死ねばいい、っていう程度の気の抜けた贈り物だよ」
ふふ、と笑っていうアルマドが怖い。
「処分するのも面倒で入れっぱなしにしてたのが、まさかこんなことになるなんて思いもしなかったけど。軽い毒でよかった。ごめんね」
甲冑に包まれた顔が、エミヤを覗き込んできた。
「いいよ、だいぶ楽になったもん」
少し体はだるいが、それでも風邪を引いたときの倦怠感程度のものだ。この前のジャガイモの芽のほうがよほどひどい症状が出た。
エミヤがそういうと、甲冑の向こうで小さく吐息が吐かれた。
(笑ったの?)
その向こうにはどんな表情が浮かべられているんだろう。
(見たいな。アルマドは、どんな男の人になったんだろう)
登城をしなくなったのは十歳になるかならないのころだ。
あの頃のアルマドは、エミヤより小さくて、道端に咲く白い小さな花のように笑う男の子だった。
年は四つは上だったが、やんちゃだったエミヤについてくるのがやっとで、いつも難しそうな本ばかりを読んでいた。
エミヤが呼びにくる前はいつも、山のように積まれた本に囲まれて、それらを夢中で読みふけっていた。
(懐かしいな。あのちいさなアルと、どうして私は離れちゃったんだろう)
目の前の甲冑にぼんやりと昔の面影を重ねていると、ふいにその甲冑がエミヤを見た。
「それじゃあ次は、エミヤの番だね」
言われ、甲冑の向こうのアルマドの顔が、笑っているけど笑っていないのが、なんとなくわかってしまった。
「そもそも、どうやってこんな厳重な場所に入り込めたの?」
それはエミヤにもわからないことである。
アサロ侯爵に言われるがまま連れてこられたのがここだっただけで、そもそも警備が厳重だったのかどうかもエミヤにはわからない。
とりあえず、命は惜しい。
こうして親しげに会話をしてくれているアルマドだが、油断するなとエミヤの本能が訴えている。
エミヤに後ろめたい画策があれば、アルマドは容赦しないだろう。
ならばエミヤがとる道はひとつである。
アサロ侯爵の画策をすべて暴露し、自分はあくまで報酬欲しさに利用されたのだと主張するしかない。
エミヤに罪ありとアルマドが判断すれば、当然罰が下される。牢屋に放り込まれて永久的に外に出ることは叶わない。つまり妹たちの顔を再び見ることも叶わない。それはいやだ。妹たちの幸せな結婚式に参列して号泣して祝福するのが、エミヤのささやかな夢なのである。
――というようなことを、エミヤは必至でアルマドに言って聞かせた。
王の寝室に忍び込んでおいて無罪放免とはさすがにいかないとわかってはいる。だが、せめて家に帰してほしい。いや、貧乏生活を憐れに思ってくれるなら、協力してほしい。
「アル、ここで私を帰しても、罰しても、きっとアサロ侯爵は諦めない。次はどんな娘が連れてこられるかわからない。そのとき、彼女たちがまた貴方に贈られた毒に曝されたらどうするの」
これも事実である。王位に付随する甘い蜜を吸いたい強欲な貴族たちは、きっと次の手を打ってくる。
「ちなみに私はどうしても報酬がほしい」
その報酬を、ほかの娘にくれてやるわけにはいかないのだ。
ここまで言えばアルマドは解ってくれるだろうと、エミヤは兜を見つめながら口を噤んだ。
恐らく瞳があるだろうところをじっと見つめ、アルマドの反応を待つ。
どんな顔をしていたってアルマドはアルマドだが、なるほど、甲冑、侮れない。
相手がどんな反応をしているかわからない、というのは、なかなかにやりづらいものがある。
「いいアイディアだよね」
アルマドの反応も待たず、突拍子もなく思いついたまま口を開いたエミヤにアルマドは不思議そうに首を傾げた。
「甲冑。王様って職業柄、表情を読み取られないって最強の武器じゃない?嫌いな奴の目の前で変顔しても相手に気付かれないって、最高。アルマドの命も守ってくれるし」
エミヤにすれば、至極まっとうなことを言ったつもりだったのだが、それから暫く、アルマドは笑いすぎて呼吸困難になった。
ひとしきり笑い、こんなに息苦しいのなんて、鎧をつけ始めて以来だ、と小さな独り言を漏らした。
笑いすぎて上がった息を整えながら、アルマドはゆっくりとエミヤへと視線を向ける。
「いいよ、エミヤ。君はきっと止めても止まらないだろうから」
鎧越しでも、やはりアルマドが笑みを湛えているのがわかった。
「それとね、エミヤ。僕はきっと、君以外の女性が毒に倒れたとしても、胸を痛めたりしない」
そうしてきっと笑みを湛えているだろう瞳が、本当は笑っていないことも、エミヤには何故か、わかってしまった。