「――泣きたいのは、私のほうだ」
暗い声だった。
それを聞いた瞬間に、エミヤは腕をものすごい力で引かれバランスを崩した。
そのまま雪と土の混じった上を引きずられるようにして歩かされ、サルバトフの屋敷へと連れ込まれた。
玄関扉を開けると、まずは大きな長方形の形をしたロビーが広がっている。そこは雪国アシドニアならではの造りで、外から帰ってきたらまずそこで雪を落とし、濡れたブーツやコートを脱ぐことになっている。今は野菜を入れる木箱や、畑仕事で使う鍬や鋤を置いている場所だ。
アルマドはそれを素早く通り抜け、二枚目の扉を開けた。
先程より広い部屋が現れる。そこからは完全に室内と考えられ、床には深いワインレッドの絨毯が敷いてあり、今は機能していないが、大きな暖炉もある。
売ってしまう前は、丸テーブルにソファが置かれ、客人の部屋としても重宝されていた。壁にも有名な画家が描いた絵画を並べられていた。生活費のためその一部を売ったところ、中身の絵より額装のほうが高値が付いたものもあった。
オリーブ色が穏やかな壁紙も、ところどころ絵の形に日焼けしている。
そういったものに目もくれず、アルマドは部屋の奥へと進んだ。
大体の家の造りは決まっている。晩餐室の手前にもっときちんとした客間があり、階上への階段がある。エミヤ達の部屋は、二階にある。
階段を上がると、大きな窓のある円形のホールがある。そこに長椅子やソファを置いて、ちょっとした交流場のように使っていた場所だ。小さいころは、そこで日向ぼっこをしていたのを覚えている。そのホールから長い廊下が広がり、いくつものドアが並んでいた。
「君の部屋はどこ?」
泣きじゃくっていたエミヤが落ち着いてきたのを見計らい、アルマドは腕を掴んだまま訊いた。
その声が、とても冷たい。
腕を掴む掌もとても大きくて、掴む力も強かった。
その痛みを堪えて、エミヤは、緑のドア……と小さく答えた。
両親が外遊から帰ってこなくなり、使用人が一人また一人と辞めていき、娘三人だけで暮らすようになった頃。
妹達と部屋のドアを好きな色に塗ってしまおうという遊びをした。
三人ぽっちになってしまった寂しさを紛らわせるためだった。
エミヤは緑だ。その頃から、夕食の材料をもらいに近所の畑を手伝ったり、花を育てたりしていたから、エミヤにとってその色はとても身近なものになっていた。
正直エミヤは、そのドアを見られたくなかった。
緑色のペンキの上に、下手くそな絵で花や蔦、鳥が描かれ、随分と子供じみているからだ。
元は薄水色の、とても上品なドアだった。
「君らしいね……」
そのドアを前にして、アルマドから少しだけ恐ろしい空気が抜けた。
素人丸出しの下手くそな絵に、気が抜けたのだろうか。
思わず安堵したエミヤだったが、それはすぐに間違いだと気づかされた。
アルマドはエミヤに了承を取ることもなくそのドアを開けて、エミヤを引きずり込んだのだ。
そのまま部屋の中央にあるベッドへとエミヤを放り投げる。
痛くはなかった。首の後ろに差し込まれた手で、衝撃を弱めてくれたことがわかる。
怒っているのに、優しい。
「アルマ、」
顔を上げて、彼の顔を見ようとした。
けれど、名前を呼びきる前にエミヤの口は塞がれていた。
「……っん、ぐ」
これはあれだ。
城で、想いが通じてから。
アルマドのキスが、たまにこうなって、あまりの熱烈さに、エミヤが逃げ腰になる度にアルマドは困り顔でやめてくれた。
アルマドの舌がエミヤの喉奥までをも求めて、口の中を這いずり回る。
ぞわぞわとエミヤの全身が波立って、反射的にアルマドの胸板を力いっぱい押した。
そうすると、思ったよりずっと簡単に、アルマドはエミヤから離れた。
離れさせたのはエミヤなのに、そのあまりの軽さに、エミヤのほうが悲しくなってしまう。
「……拒むの」
アルマドの、消え入るような声が聞こえた。
ちがう、ごめんなさい、そうじゃない、とエミヤが弁解しようとする前に、アルマドの鋼のような身体が覆いかぶさってきた。
気付けば両腕を頭の上で拘束され、暴れてもびくともしない。
重い身体に潰された自分の身体の頼りなさに、エミヤは驚いた。
先程の軽さなど微塵も感じさせない。
手加減されていたのだと、そこで気付く。
身体を捻って逃げようとしても、脚をばたつかせようとも、アルマドにとって大した抵抗にはならなかった。
アルマドの唇が、暴れたせいで服が乱れ、無防備に曝け出されたエミヤの首筋に落ちる。
濡れた咥内の感触が敏感な場所をなぞり、エミヤはのけぞった。
「アルマド、アル……ッ」
悲鳴のように名前を呼んでも、アルマドはそれをやめようとしなかった
嵐のようだった。
長い口付けで骨まで溶かされた後、エミヤはアルマドに抱かれた。
暖炉に火をくべていない、ひどく寒い部屋で。
寒いと思う余裕もないほど、身体が燃えていた。
ベッドのシーツがぐちゃぐちゃになっている。
それを素肌で感じる。
「や、やああ……」
熱くて、痛くて、苦しくて、エミヤが泣いても、アルマドはその手を離さなかった。
身体が焼かれているようだった。
アルマドがエミヤに齎す全ての感覚が未知で、ぞっとして、ひどく心地よかった。
泣きながら見つめたアルマドの顔。
酷い顔をしている、と思った。
アルマドの顔は、欲情した男の人のものだ。
そんな表情、どんな男の人のものでも見たことがないのに、エミヤはそう思った。
そして自分も、きっとそんな顔をしているのだろうと。
「アル、アル……」
いつの間にか、自分から口付けをねだっていた。
ねだったらすぐにくれるアルマドが好きだと思った。
こんなことをされても、エミヤにとってアルマドは、変わらず〝愛している人〟だった。
「アル、好き。大好き」
アルマドに愛され、その腕の中で震えながら、エミヤは泣いた。
「……エミヤ、私も、君を愛している」
身体がちぎれそうな力で抱きしめられて、エミヤはそのまま意識を失った。