結論から言うと、アサロ侯爵は言葉通りエミヤを家へと帰した。
その際、脅迫されて口止めされたとか、暴行を受けたとかいう事実もない。
それどころか、報酬金だときちんとした箱に並べられた大量の金貨を手渡された。
従者達は最後まで礼儀正しく去っていく。
それを見て、もしかしたらアルマドが手を引いていたのかもしれない、とエミヤは残酷にも考えた。

それからは、以前のように生活した。
住み慣れた家、過ごし慣れた部屋、着慣れた自分の服、自由にできる時間。
それらすべて嬉しいはずなのに、エミヤはうまく笑えず、妹達に連絡することも先延ばしにしていた。
とはいえ、まだそんなに日も経っていない。
城から出て、二日ほど。
そろそろ、三日目の夜がくる。
たった二日だが、絶望的な期間だ。
これだけ日が過ぎているのに何の連絡もないということは、アサロ侯爵の話は全て事実だったということだろう。
エミヤ一人しかいないからか、家の中の空気が重い。
エミヤは簡単な夕食の支度を終えると、そっと外に出た。
サロバトフ家は、高台に建つ。街並みが並ぶ土地と比べて少し小高いだけなのだが、ほかに遮蔽物がないので城がよく見えた。
幼いころ、アルマドから突き放されてから暫く、こうして泣きながら城のほうを見て、アルマドーと叫んでいたのを覚えている。
(今も同じだ。毎日のように城に向かって、心の中で彼を呼んでいる)
返事はないと、知りながら。

空はまだ明るい。
黄昏時まで時間があるだろう。
エミヤがアルマドに話した、あの手作りの温室まで足を向けた。
昨夜のうちに、雪がだいぶ積もってしまった。
門扉から玄関までは雪かきをしたが、庭のほうはしていないので、ざくざくと足を取られながら進む。
寒かった。指先が今にもかじかんで裂けそうだ。
羽織ってきた毛糸の外套を体に巻き付けて、エミヤは温室を前にした。
エミヤの〝薬箱〟は、大半が雪に埋まっていて、天井部分がほんの少しだけ見えている状態だった。
とはいえ、全て埋まっているよりはましである。
今日一日、とてもいい天気だった。
雪が降ったあとの、澄んだ青空が広がり、気持ちのよい日だった。
温室に積もった雪を掻き分けると、見慣れた硝子張りの小さな薬箱が出てきた。
世話はきちんとされていたようで、多少の枯れは見られたが、ちゃんと生きている。
それなのに、今のエミヤにはそれを世話する気持ちも湧いてこない。
アルマドの温室にもあった見慣れた薬草が、今はしょんぼりと元気がないというのに。
今世話をしてやれば生き返るのに、そうしようとはどうしても思えない。
(……枯れることを望んでいるのかな。この植物も、私も、全部、枯れることを)
それなのに、枯れなかった。
泣いても泣いても、何も変わらなかった。
アルマドへの想いも、思い出も、なにもかも、枯れたりしない。
解っていることなのに、枯れずにエミヤの中であり続けるからこそ苦しくて、涙は勝手に溢れ出てきてエミヤを困らせた。
この足元にある、手作りでちゃちな温室が、エミヤとアルマドを繋げてくれた。
けれどもう、こんなものに縋ってもなんの意味もない。
アルマドは、来ない。
アルマドは鎧から解放された。
そして、身軽になったその姿で、エミヤから離れたのだ――。
それでも。
(――疑って、城まで飛び出してきたのに、それでもアルマドを信じたい……)
想うだけ胸が一杯になり、溢れてしまった分が涙としてとめどなく流れていった。


「……蹄の音?」
温室の前で泣いていたエミヤの耳に、聞きなれない音が届く。
この辺りは、他にはいくつか老人が済む民家があるだけでとても静かな場所だ。
妹達がいるときは、このサロバトフ家が一番賑やかな家だと言われていたのだが、今は静まりかえっている。
だからか、その音がよく聞こえた。
重量のある馬の蹄の音だ。それも、恐ろしく急いでいるように聞こえる。
そんなスピードでこんな田舎道を走っては危ないのでは。
道を開けるために、雪かきをしている老人もいるのだ。もし出会い頭にぶつかりでもしたら、危ない。老人は耳が遠いので、蹄の音は聞こえないだろう。
そう思い立ち、エミヤは表へと通じる道へと出ようとした。
泣いていたことに気付いて、人に見つかる前にそれを拭おうと手で顔を擦った。
自分の手が、酷く冷たい――。

「エミヤ!」
稲妻が走った。
拭いきれなかった涙が零れ落ちたが、それを拭うことも忘れて、ゆっくりと顔を上げる。
空耳かと思った。
ここのところずっと、彼を想って泣いていたから。
けれどその声は、今まで聞いたことがないほど切羽詰まっていて、怒っているように聞こえて、悲鳴のようだった。

見上げた先、彼は、確かにそこにいた。
低くなった太陽を背負って、顔がよく見えない。
けれど、それが誰かなんて、誰に言われなくてもわかる。
防寒を施された馬の影は随分と大きく見える。


その馬に跨っている、アルマドも――。
遠くとも、アルマドの目はしっかりとエミヤを見ていた。
あの水色の瞳と視線が合って、エミヤはそのまま動けなくなる。
息荒く、ここまで随分の速さで走ってきただろうことがわかる。
アルマドは馬を落ち着かせると、乗馬したまま、ゆっくりとエミヤに近づいてきた。
それがどういうことなのかわからない――わからないのに、涙がまたも勝手に溢れて、零れた。
アルマドの美しい髪が、冷たい風に靡いている。
見覚えのない、詰襟の美しい制服のようなものを着ている。上には外套を羽織っていたが、馬の走るスピードについていけずに今にも飛んで行ってしまいそうである。
(アルだ、アル、アル、アル……)
アルマドはサロバトフ家の門を過ぎ、エミヤの数歩前で馬を止めた。
暫しエミヤを見つめたあと、ゆっくりとした動作で下馬すると、そのままエミヤの前に走ってきた。
「何故一人で泣いている!」
開口一番そう怒鳴られて、エミヤはびくりと体を跳ねさせた。
なんと答えたらいいかわからず、エミヤは口籠った。
それが、良くなかった。
エミヤの様子に、アルマドは一気に激高した。
「どうして城にいない?事故現場の視察から戻ったら、君の姿がないと報告を受けた。〝根〟も私について出払っていたせいで、何の情報も得られない。アサロ侯爵が、君は自分から城を出たのだと報告を寄越した。それは本当か?私を愛しているといったのは、君の嘘だったのか?」
激高しているのに、今にも泣きそうな顔だった。
声も上擦り、更にはこんなふうに捲し立てるアルマドを見たのは初めてかもしれない。
けれど、エミヤは今やもう泣きじゃくりすぎて、喋れもしない。
アルマドの言葉一つ一つが、エミヤにとっての〝証明〟だった。
「泣いていてもわからない。君が城にいないと聞かされた時の私の絶望が、君に解るか」
エミヤを前に、押し殺した声で、アルマドはそう吐き捨てた。
それでも、エミヤはうまく取り繕うこともできなかった。
違う、と言いたいのに、嗚咽が喉を突いてうまく話せない。
弁解しないといけない。アルマドは傷付き、誤解している。
(でも――)
エミヤの涙だらけの視線の先に、ここ数日、いやもっとずっと前から、焦がれていた人がいる。
その姿が、生身だろうが鎧だろうが、関係ない。
エミヤが愛したその人が、エミヤに会いに駆けてきてくれた。
望んで止まなかったその人を、また見つめることができた。
今のエミヤにとって、それは発声の器官を蝕む毒のように強烈な、幸福だった。
うまく言葉は出ないのに、涙だけは零れ続ける。