「――エミヤ・サロバトフ嬢」
温室を飛び出して、執務室の方向を確認していたとき、エミヤはその声に呼び止められた。
エミヤの名前をフルネームで呼ぶ人は、この城では珍しい。エミヤの素性を知る人間は、限られているからだ。大体の者は、エミヤを昔栄華を誇ったサロバトフ家の娘ではなく、ただの町娘として認識している。
「……アサロ侯爵」
そこにいた人物に、エミヤは茫然とした。
エミヤをこの城へ招き、アルマドの寝室へと手引きした張本人が、今頃になって現れたのだ。
「久しぶりだね。元気そうでよかった」
アサロ侯爵は恰幅のいい男だ。顔は穏やかな表情をいつも張り付けていて、本音がわからない。
泣いたばかりで酷い顔をしているだろうエミヤの顔を見てそう言うのだから、喰えないタヌキオヤジである。
「……ご無沙汰しております」
エミヤにとって、アサロ侯爵は一応雇い主という形になっている。
話を持ち掛けられて、アルマドの部屋に入ってから一切のコンタクトがなかったとしても。
(違うな。アルマドがそれをさせなかったのかもしれない)
そのあたりもきちんと話しておくべきだったと、エミヤは後悔した。
自分が、どれだけアルマドへの恋に夢中になっていたか気付かされる。
「まさか、君が本当に王の寵愛を得るとは思っていなかったから驚いたよ。寝室に侍らせても、きっと今までと同じように、王に斬り殺されて終わってしまうかと思っていたからね」
要するに、最初から報酬など払う気はなかったということである。
「けれど、君は大きな仕事を成し遂げてくれた。あの鎧から王を解放したどころか、人間らしくしてくれるとはね。まさか私も、我が王があんなに見目麗しい姿であるとは思わなかったが」
エミヤは口を挟まずに、アサロ侯爵の話を聞いた。
彼が何を考え、エミヤの前に現れたかわからない。
「お陰で、不気味だと寄り付かなかった令嬢達が菓子に群がる蟻のように集まってきてくれた。君は素晴らしい働きをしてくれたよ。お陰で」
心底から満足そうだが、どう聞いてもアルマドと令嬢達を馬鹿にしている。
アサロ侯爵が、瞳を細めてエミヤを見据えた。
「君には酷な話だが、やっと王の正妃が決まった」
淡々とした声だった。嘘を吐いているようにも、吐いていないようにも見える。
それにその表情が、エミヤを心から憐れんでいることが怖かった。
「正確には、正妃と側室数人、王の承諾のもと決めることができた。君が王に恋というものを教えてくれたお陰だ。君とは違い、家柄も財源も持つ美しい令嬢達を選ぶことを、王は渋々ながらも納得してくれてね」
エミヤの足は、地面に張り付いたまま動かなかった。
先程、アナンベル嬢に言われた時以上に頭が真っ白である。
何も考えられないのに、アサロ侯爵の言葉だけはするすると空気のように入ってくる。
まるで呪いだ。
「けれど、王はお優しい方だ。国のためにそう判断されたとはいえ、貴女を捨て置けないだろう」
憐憫を秘めた瞳で見つめられ、エミヤは息を飲んだ。
その先の言葉を、聞きたくない。
「どうか王を想うなら、貴女自ら、城を去ってほしい――」
そう言われて、何故か急激に腑に落ちてしまった。
先程アナンベル嬢達に啖呵を切ったばかりだというのに、アサロ侯爵の言葉に、その通りだなと同意してしまったのだ。
(……アルの不能説は素顔を出したあたりから全く聞かなくなったし、鎧を脱いだお陰で、以前よりずっと皆に受け入れてもらえるようになったようだった)
エミヤは足元を見たまま、ぐるぐると思考の渦に落ちた。
(私にはなんの後ろ盾もない。アルが愛してくれた事実だけ。それだけじゃアルの助けにならない。私はなにも持ってないのに、でも、あのアナンベル嬢にさえそれは備わっている。地位もコネも財源もないような私が、アルの隣に立つ?)
それはとても、非現実なことのように思えた。
(でも、アルは結婚したいと言ってくれた。ああ違う、それはアル個人の気持ちで、本当にそれは可能なのかわからない。アルは個人を持つ前に王であることを求められる。今、鎧を脱いで、王としても皆に受け入れてもらえるようになったのに、私がそれを邪魔する?)
そっちのほうが、よほど酷い。

「……アル」
エミヤにそんなつもりはなかったが、酷い声が出てしまった。
雨の中、栄養が足りずに泣く、痩せ細った猫のような。
(例えば、昨日アルに会えていたら私の気持ちはこうはならなかったのかもしれない。アルに愛を囁いて囁かれて、口付けを交わしていれば――)
けれど昨日も、その前も、そのずっと前も、アルマドとは会えない。
エミヤの待つ部屋に帰ってこれるはずなのに、帰ってこないアルマドの矛盾。
考えたら、勝手に涙が溢れてしまった。
アサロ侯爵の、おやおやという憐れんだ声がひどく遠くで聞こえる。
「可哀想に……。お帰りなさい、貴女が本来いるべき場所へ」
そこからは、あっという間の出来事だった。
エミヤがうんと答える前に、アサロ侯爵は数人の従者を呼び、エミヤを城から追い出してしまった。全て手筈通りだということだろう。
従者の顔を見れば、ここで下手に暴れればどうなるかわかった。
エミヤはされるがままに、黙って彼らに従う。
城に来た時と同じ馬車に乗せられ、数人の従者に取り囲まれたまま、家へと向かっているのがわかる。
本当に家まで帰してくれるのか、もしかしたら、家で始末されるかもしれない。
(妹達がいなくてよかった……。巻き込んでいたかもしれない)
それだけを思い、エミヤはそのまま思考を止めた。
なにも考えたくない。
アルマドの真実が見えなくなった。
こうなった今、鎧を着ている頃のほうが、ずっと近くにいれた気がする。
素顔を見れて、顔を見て解り合うことができると喜んでいたのに、皮肉だ。
ガタガタと荒れた道を過ぎ、やがて馬車は止まった。
郊外にある、エミヤの家。
エミヤは、あの孤独な城にアルマドを残し、二人で挨拶に戻ろうと話していた我が家へ、たった一人で帰ってきてしまった――。