「……アル、久しぶりだね」
勝手にそんな言葉が口をついて、先程まで暴行を加えてきていた男に笑顔を向ける。妹たちがこれを見ていたら、おねーさまちょろすぎるよ、の言葉を賜りそうである。
「……ああ、エミヤも。久しぶり」
アルマドは完全に虚を突かれた様子で、エミヤに促されるままそう答えてくれた。
「立てるかい?」
差し伸べられた甲冑の手を取ると、手先がかじかむ程ひんやりとしている。
「この甲冑すごく冷たいけど、中身の貴方は大丈夫なの?これじゃ凍えそうだよ」
触った感じでは完全に銀食器のそれである。エミヤの家にも美しい銀食器はあるが、冬場は冷え切っていて冷たいので触りたくない、そもそも殺人的に冷たい井戸水で更に冷たい銀食器を洗わなきゃいけないなんて不毛すぎる、との理由から戸棚の装飾品と化している。毒を盛られたときすぐに気づける、とエミヤが生まれる以前から置いてあるものだが、没落したサルバトフの娘たちに毒を盛る人いる?いないでしょ?と、満場一致で一年中気候の厳しいアシドニアでもぬくもりを感じられる安価な木の食器に乗り換えた。
という話をしたら、甲冑がぶるぶると震えだした。
「やっぱり寒いんじゃないの?その鎧脱ぐ?それとも暖炉の傍に行く?」
暖炉に火は灯してあるが肌寒いことに変わりはない。現にアルマドは震えている。
「ちがう。違うんだエミヤ。……ふふっ」
何が違うのか、と問い返したかったが、とりあえず自分が笑われていることは理解した。
震えているのは、笑いを堪えているかららしい。
「今の話に笑う要素あった?」
エミヤとしては大真面目に話したつもりなので、笑われるなんて心外である。
そう問いかけてきたエミヤに、アルマドはとうとう耐えられないと言うように吹き出して、大笑いを始めた。
「だって、そんな話、おかしすぎて……ふふっ、笑うなってほうが難しい」
ふふふとアルマドの低い笑い声が響く。国王ともなれば、笑い方ひとつとってもお上品である。その笑い方が、ずっと昔のアルマドを彷彿とさせて、エミヤはひとり嬉しくなった。
しかし手にした剣はそのままで、いつでも振り上げられる位置にある。エミヤが何かひとつでも怪しい真似をしたら、今度こそ首の動脈を切り裂かれるだろう。
そこに、アルマドの今までの過去が垣間見えた気がして、エミヤは努めて明るい声を出した。
「ところでなんで甲冑なんて着てるの?脱げば?」
まさかこれが地雷だったとは、この時のエミヤは思ってもみなかった。
エミヤの言葉に、アルマドからすっと笑いが引く。
周囲の温度が一気に低下して、アルマドから醸し出されていた柔らかな空気は冒頭の殺伐としたものへと一変してしまった。
「……そうだね、その話をしようか」
虚雑するような声音でそう言うと、エミヤの腕を強く握って暖炉前のソファへと誘導する。誘導、というよりは、引きずって歩かせたと言ったほうが正しい。
「アル?」
急変したアルマドの態度に戸惑いながら、エミヤは従うしかない。
やっと彼の態度がほぐれてきたのだ。この距離感をもう少し詰めなくては、子作りなどできない。
「君もだいぶ体が冷え切っている。酒を持ってくるから、これを着てて」
エミヤをソファへと座らせ、大きなバスローブをエミヤの肩に掛けるとアルマドは小さな扉の向こうへと消えてしまった。厳重に鍵がしてあるのか、何度も何度もカチャカチャと鍵を開ける音がエミヤの耳に残る。
暖かな暖炉の火が、エミヤの体をじわじわと温めていく。
ぽつりと残された部屋をぐるりと見回すと、寝台の奥に飾り棚があった。
(あれもお酒じゃないのかしら……)
さすが国王の寝室に置かれた家具である。繊細な彫刻が施された木枠に透明なガラスがはめ込まれている。そのガラス越しに、美しいゴブレットと酒瓶が見えた。
バスローブの紐を締めてその棚を開けてみると、鍵はかかっていなかった。
深い紫色を見る限り葡萄酒のようだが、減った様子はない。
(何故わざわざ鍵を開けて別のお酒を取りにいったのかしら)
不思議に思いながらも、エミヤはその酒瓶を手に取った。
冷たい部屋に置かれていたからか、ぞくりとするほど冷たい。
貴族のご令嬢方が喜びそうな、曲線の美しい酒瓶である。ついつい興味にかられ、キュルキュルとガラス製の蓋を開けてみた。
途端に周囲に広がる芳醇な香りに、エミヤはくらくらと眩暈を起こす。
「嗜好品の香りがする」
変な独り言まで出る始末である。
こんな高級そうなワインの香り、かれこれ何年嗅いでいなかっただろうか。
嗅ぐだけで酔えそうな香りである。頭がくらくらしてきた。高級なワインは香りだけで人を酔わせるものなのか。
(あれ、本当にくらくらしてきた。何かなこれ、目が回る……)
思ったときには酒瓶を床に落としていた。ガシャンと割れた音が足元でする――と思った次の瞬間には、エミヤは床に倒れこんでいた。
「エミヤ!」
ぼんやりとする意識の中で、アルマドの焦った声がする。
「飲んだのか!?」
飲んでない。飲んでません。
なんとか首を振って否定したが、全身が熱っぽくて苦しい。
「くそっ」
アルマドの舌打ちが上から聞こえる。
(国王がくそとか言ってる……)
そんなことを考えていると、首にひんやりとしたものが当てられた。それが甲冑に包まれたアルマドの手だということを理解すると、それにゆっくりと体を起こされた。
「毒が回ると厄介だからすぐには動かせない。怪我はあとで手当てする」
アルマドがそう言い終わるや否や、口にひんやりとした何かが当てられた。冷たくて柔らかいが、そこから咥内に入り込んできた液体は温かい。
「解毒剤だよ。嗅いだだけなら少し眩暈と発汗が起きる程度だ。直によくなる。落ち着くまで少しだけここで待とう」
アルマドはエミヤの体をゆっくりと抱えると、その甲冑の腕の中にしまい込んだ。
国王がガラス片が散らばった床に座り込み、エミヤを抱き支えてくれるとは。
(昔の優しいアルのままだ……)
そんなことを思いながらも、国王の寝室に置かれた酒瓶に毒が入っていた事実にぞっとする。
(何故?あれはアルが用意したもの?誰かを殺すために?それとも――)
アルマドの腕に抱かれながら、悶々と考えていると、そっと滲み出た汗を拭われた。
気だるさを耐えてなんとか顔を上げると、顔の見えない兜がこちらを覗き込んでいる。
表情は見えないのに、エミヤを心配している気配がする。
「……ごめん。私がもっと早く処分していれば、君が毒なんかに晒されることもなかったのに」
後悔の滲んだ声でそんなことを言う。
(アルを悲しませたいわけじゃなかったのに)
そもそも軽率な行動を起こしたのはエミヤである。貧乏を言い訳に美味しそうなワインの芳香を胸いっぱいに吸ったのが悪い。
けれどそんなことを言っても、アルマドの気は晴れないだろうとエミヤはなんとなくわかっていた。
「大丈夫」
だから笑うことにした。
「大丈夫よ、死なないわ。この前なんて芽が出たジャガイモを食べて妹たちとお腹を壊して寝込んだの。その前はちょっと腐りかけの卵。私たちの体を害する毒なんてそこらへんに転がっているもの。アル、私は大丈夫よ」
アルマドを慰めるためである。この際、恥くらいいくらでも暴露しよう。
けろりと言い切ったエミヤに、アルマドは一瞬呆けて、小さく肩を震わせた。
笑っているようである。エミヤの決死の作戦は成功した。