「今日のお茶はカモミールだよ」
そう言ってエミヤはいつもよりずっと丁寧な仕草でお茶を淹れた。
目の前には相変わらず鎧を着たアルマドが座っている。
温室に置いたテーブルで、エミヤは今日もアルマドとお茶会を開いていた。
いつものようにエミヤが用意した菓子と茶を一番に食べ、アルマドもそのあとに続いて口をつける。
齧ったパイはぱさぱさしていて、エミヤの口の中の水分を吸い上げた。
あの日以来、エミヤは厨房への出入りも許されるようになった。許されてからは、温室に滞在する以外の時間は厨房に居座るようになっていた。
厨房とはいっても、城の料理人が使うものではなく、かつて王妃が作らせた小さな厨房である。
まるで、抱いてもらえない代わりに、厨房への切符を手にした気分だった。
「今日のはね、林檎のパイを作ろうと思って失敗したんだ」
「そう?とても美味しいよ」
エミヤの言葉に、アルマドは笑った。
このパイの林檎は、朝一番にアルマドにお願いして用意してもらったものだ。本当なら自分で料理人たちがいる調理場へ行き材料を揃えたいのだが、エミヤにそれは許されていない。
「カモミールのお茶はどう?」
訊くと、アルマドは美味しいよと微笑んだようだった。
取り外せる兜の口の部分は、食べ終わるとすぐに元に戻されているので、表情も定かでない。
それでも、アルマドの口許がとても端正なものだということには、気付いていた。
ほんの少し前なら、アルマドがいるだけで、口許を見ることができただけで、舞い上がっていた心が今は固い貝にでもなってしまったかのように動かない。
(……動かないように、今の私は我慢してる)
アルマドは、エミヤのあの告白以来、壁を作るようになった。
もともと壁はあっただろうが、今のように気まずいものではなかった。
最近のアルマドは、明らかにエミヤを避けている。
露骨ではないが、以前よりずっと一緒に過ごす時間は減った。部屋へと戻ってこないこともしばしばある。
故意に、一緒にいる時間を減らされているのだ。
なにより、こうして面と向かっていても当たり障りのない会話だけに留まり、なるべくエミヤと言葉を交わさないようにしているのがわかる。
以前は薬草や花のことで時間を忘れるほど語れたというのに、今はその話題にも触れない。
そうなると、エミヤにはもう成す術はなかった。
(このお茶会に来てくれているだけでも、有難いと思わなきいけないのかな)
多忙の身で、それでもエミヤとの時間はこうして残してくれている。以前と比べると格段に傍にいられることは少なくなったが、全く無いわけではない。
(私の告白は、迷惑だったんだろうな)
困らせたくはないのに、結果アルマドにこんな態度を取らせてしまっている。
考え込んで言葉も出なくなったエミヤにアルマドは暇を告げた。
「ごめんね、仕事が溜まってるんだ」
そう申し訳なさそうに謝られたそれさえ、嘘なのではないかと思ってしまう自分がつらい。
エミヤは、意識して屈託なく見えるように笑顔を浮かべた。
「謝らないでよ。次は美味しいパイを焼くから楽しみにしてて。またあとでね」
きっと今日も、アルマドは部屋に戻らないだろう。
あとでがないことを知った上で、エミヤは何事もなかったかのようにアルマドに手を振った。



「据え膳喰わぬは男の恥と、遠い東の国では言うそうですよ」
執務室に戻ったアルマドに、ゴーストは開口一番そんな言葉を投げつけた。
「私を怒らせたいのか」
アルマドは、鎧の下から不機嫌極まりない声を出した。
「我が主が思い悩んでいるように見えましたので」
兜越しに睨まれても、ゴーストはしれっと皮肉を口にした。
行儀悪く執務机に腰かけたアルマドは、大きく溜め息を吐き出した。
「――ああ、お前の言う通りだ。かつてないほど私は思い悩んでいる」
口にして、もう一度深いため息を吐く。今アルマドを苦しめている悩みを、肺の中いっぱいの空気とともに外に出してしまおうとしているようだった。
「頂けばよかったのです。自らその身を差し出した兎を、何故舐めもせず野に放してしまったのか。このゴーストには理解できませぬ」
「お前に理解など求めていない。私は、エミヤにあんな笑顔を浮かべさせる自分が不甲斐ないのだ」
「それならば、尚更頂いてしまえばよかったのです。そうすれば、エミヤ殿に恥をかかせずに済んだのでは」
「エミヤは私にまとわりつく噂を払拭するためにその身を差し出しただけに過ぎない。恥をかくも何も、エミヤは正義感からそう申し出てくれただけだ」
「――本当に、そうお思いですか」
ヒヤリ、と部屋の温度が下がった。
ゴーストの低い声に、アルマドは言葉を喉に詰まらせた。
「それでしたら、エミヤ殿は救われませんな……」
溜め息と共に吐き出されたゴーストの言葉に、アルマドはかっとなった。
頭の中に、あの時のエミヤの様子が思い浮かぶ。
今にも泣きそうな、けれど決意した瞳で、鎧越しのアルマドをまっすぐ見つめていた。
その瞳に、想いに、応えられればどれだけいいか。
彼女を傷つけた後悔が、アルマドの怒りに火を点けた。
「お前に何がわかる。エミヤは私に贈られた毒で倒れた。この鎧ですら彼女に傷をつけてしまう。そんなことは大したことではないと彼女は笑う。けれどそうして私の傍にいれば必ず傷付く。いつ卑劣な毒に曝されるかしれないというのに、彼女はその恐ろしさも知らず、私のためだけに、私の傍にいようとする」
アルマドがあの真摯な想いを受け流したときの、エミヤの傷付いた顔が、火傷のようにアルマドの心に残っている。
「――私は、エミヤの泣き顔を見たくない」
血の吐くような言葉だった。
ゴーストは改めて、アルマドを静かに見つめた。
エミヤが傷ついたように、アルマドもまた、傷付いたのだ――。
「……鎧で傷つけたというのなら、お脱ぎになればよいのです。貴方はもう、なんの手立てもなく危険に曝されていた幼い子供ではない。エミヤ殿のことを想うのなら、即刻その鎧をお脱ぎになられませ。貴方は地位を築き上げた。貴方自身と、エミヤ殿を守る覚悟を」
核心を突かれたアルマドは閉口するしかなかった。
今までアルマドの鎧に関して一言も言及したことのなかったゴーストの言葉は、アルマドの心を容赦なく締め付ける。
アルマドが鎧を纏うのには理由がある。己の身を守るためと、臆病な心を隠すためだ。
鎧はアルマドの幼く弱い心を隠し、王たらしめるもの。
それを捨てろという。
エミヤのために――。

積もる雪より重い沈黙が落ちると、それを破るように扉がノックされた。
「この時間に訪問者とは珍しいですね……」
ゴーストが扉を開けると、いつも執務室の給仕をする古参のメイドが困り顔で立っていた。
開いた扉から、いい香りが漂ってくる。
「執務中に申し訳ありません。エミヤ様から、こちらをお届けするようにと言いつかりまして……」
アルマドが匂いと〝エミヤ〟に釣られて彼女の手元を覗き込むと、その手には〝成功〟したアップルパイが乗っていた。出来立てなのだろう。湯気が立ち、見た目にもほくほくしている。
「エミヤは?」
「それが、エミヤ様のお姿は拝見していないのです。エミヤ様から頼まれたという、使いの者から預けられまして……」
「怪しいの極み」
ゴーストが間髪入れずにそう断じた。
それを聞いていながらも、アルマドはメイドからアップルパイを受け取り、彼女を下がらせる。
アルマドの手に乗せられたアップルパイを睨みつけながら、すかさずゴーストが止めに入った。
「口にするのは危険です。アルマド、根を呼んで確認させましょう」
「いや、いい。エミヤが成功したものを作ると、先の茶会で言っていた」
アルマドは休憩用のテーブルにそれを置くと、ナイフを取り出して器用に切り分けた。
エミヤがしていたのを、ここ何日が目の前で見ていたからだ。
「陛下、おやめください。怪しすぎる」
ゴーストの焦燥を滲ませる警告に、アルマドは聞く耳は持たなかった。
アルマドの頭の中には、もうずっと前から、傷付きながら笑うエミヤがいたのだ。
「陛下!」
そのエミヤが、重い鎧を着て殺意から己を守り続けてきたアルマドの眼を、雪で覆うように曇らせた。





エミヤは走っていた。

今は夕食時だ。食堂のある向かいの棟では、給仕と食事で忙しい者達がひしめきあっているだろう。
けれどエミヤが走る廊下は、恐ろしいほど冷たく静かだった。
冷え切った空気がエミヤの頬を裂くように流れていく。
自分の荒い息と、走る足音と、そして、先ほど告げられた言葉が、エミヤの体をぐるぐると巡っていた。
――アルマドが毒に倒れた。
その知らせが入ったのは、温室からアルマドの部屋へと戻ってすぐのことだった。
エン技師の、以前会った時と変わらないくしゃくしゃの白衣が、今日は異様にくたびれて見える。
状況を理解できないでいるエミヤをじっと見つめて、彼は言葉を続けた。
『容態がだいぶ悪い。もしもの時のために、覚悟を決めておいてくれ……』
ぐらり、とエミヤの視界が揺れた。
立っていられなくなったのだと気づいたのは、エン技師が腕を支えて倒れずに済んだからである。
(たすからない……)
雲を噛んだような感覚だった。
口にしたのに、まるで実感が湧かない。
――助からない。
酷い言葉だ。
容赦がない。
エン技師に、勝手に諦めないでと怒鳴ってやりたかった。
けれど、今にも涙してしまいそうなその瞳を見ていれば、そんなこと言えるわけがない。
それに、気になることがあった。
『どうして……』
アルマドは、そうして毒を盛られることに、十分すぎるほどの注意を払ってきたはずだ。
幼いころから繰り返される暗殺未遂に散々曝されてきた彼だからこそ、そんな事態が起こるなど信じられなかった。
そう問うたエミヤに、エン技師の目に躊躇いが浮かんだ。
心臓がけたたましく鳴り響く。
息が上がる。
それでもエミヤは、エン技師からの言葉を待った。
そのエミヤを前に、エン技師はやがて決意を決めるようにそれを口にした。
『あんたからだと、騙られたアップルパイを口にしたんだ』
視界がまた揺れた。
けれど、倒れたのではない。
エミヤは、気付けば走り出していた。
後ろから、エン技師の叫ぶ声がする。
けれど、そんなもの、すぐに聞こえなくなっていた。

(私のせいだ、私のせい、私の……)
大きな塊が喉元まで迫ってきて、堪えきれず、エミヤは号泣した。
号泣したまま、静かで暗い廊下を走り続ける。
息が苦しい。
酸素が足りず、頭がくらくらする。
アルマドが、死んでしまう――。
目を開けているのも苦しかった。
涙はかつてないほどたくさん溢れ、エミヤから視界を奪う。
(私が、私があんなこと言ったから――)
アルマドは優しい。
のぼせ上がったエミヤの告白を受け流したことを、アルマドはずっと気にしていた。
だからお茶会にも時間を作って必ず来てくれたし、エミヤが出した茶やお菓子は、絶対に口にした。
アルマドが、他人から出される食事をどれだけ恐れていたか、わかっていた。
(わかっていて、それを見ない振りをして、私は――)
アルマドが、エミヤのためにその警戒心を、恐怖心を抑えてくれることが、心の底から嬉しかった。
この国の王であるアルマドが、塵屑のようなエミヤに、そうして心を砕いてくれたことが嬉しかった。
(無理をさせていた。それが嬉しくて、わかっていたのに)
こんな人間が、アルマドの傍にいていいわけがない。
(けれど、まだだめだ)
アルマドの前から姿を消すのは、やることをやってからでなければ――。