そのあとは、どうやって帰ったか覚えていない。
気付けばアルマドの部屋にいて、暖炉前のソファに座ってぼんやりとしていた。
「エミヤ?」
灯りもつけず、暖炉の火だけで照らされた部屋を見るに、外はもうだいぶ暗くなっているようだ。
アルマドががしゃがしゃと金属音を立てて近づいてくる。
「エミヤ、具合でも悪いの?」
暗闇の中に浮かび上がる不気味な鎧から、気遣わしげな声が聞こえてくる。
エミヤは茫然とした表情で、アルマドを見つめた。
「……エミヤ?」
エミヤの様子に、アルマドが訝しげに眉を寄せる――鎧越しに、そんなことがなんとなくわるようになるほど、傍にいたのに。
「アルマド」
からからに乾いた喉から、がざがざしたみっともない声が出た。
それを気にする余裕もなく、エミヤはソファから立ち上り、じっとアルマドを見つめた。
「子供を作ろう」
この時のアルマドの顔は、どう形容してもしっくりこないものだった。
混乱の極みである。
エミヤの口から飛び出したそれを理解するのにかなりの時間を要した。
痺れを切らしたエミヤにベッドへとされるがまま連行されてやっと正気を取り戻した頃には遅かった。
その頃には、ベッドに転がされた鎧の上にエミヤが跨っているという、アルマドを再び混乱の渦へと貶める状況になっていた。
「私を抱いて、アルマド」
真上から覗き込むエミヤの顔は、冗談を言っているようには見えなかった。
涙さえうっすら浮かんでいる瞳で、アルマドをまっすぐ見つめている。
「エミヤ、状況がわからない。とりあえずそこを退いて……、怪我をさせてしまう」
固く冷たい鎧で、エミヤの柔らかな体を傷付けてしまうのでは、と懸念しての言葉だったが、今のエミヤにはあまり効果はなかった。
「エミヤ」
微動だにしないエミヤに、アルマドが困ったような声を出す。
エミヤはそれを心を締め付けられるような思いで聞いた。
「本当の寵姫にして」
暖炉の火の音に掻き消されそうなほど小さな声だった。
そんなエミヤに、アルマドは何かを察したようだった。
「……噂を聞いたんだね」
図星を当てられ、エミヤの視線がアルマドから逃げる。
「こんなことをしても噂は消えないよ、エミヤ。あれは僕の兄上達が嫌がらせで流したものだ。君を抱いたとしても、今の噂に取って代わる別の話題が供されるだけで、意味がない」
感情が高ぶって今にも泣きだしそうなエミヤを、アルマドは淡々と説得した。
〝意味がない〟――。
アルマドのその言葉が、氷の矢となってエミヤの心臓を貫く。
「私がいるせいで、アルマドがあんな風に言われるのはいやだ」
震える声でそう言い終わるころには、エミヤの頬には涙の筋ができていた。
この涙が、どうして流れてきたのかエミヤにもわからない。
あの名前も知らぬ令嬢達も、顔も思い出せないような使用人達も。
エミヤをだしにして、アルマドを嘲笑する。
自分がそんなものの理由にされているのが、とてつもなくいやだった。
そして、まるで突き放すようなアルマドの言葉が、エミヤの頭の中でずっと繰り返されている。
「アルマドはどうして私を傍に置くの。私のせいで君を害する人間に付け入る隙を作ってしまっているのに」
こんなこと言いたいわけではなかった。
どうして置くも何も、エミヤがまだ一緒にいたいと我儘を言ったからだ。アルマドはそれを聞き入れてくれただけで、他意などない。
(一緒にいたいと思っているのは、私だけだというのが、つらい、アルマド)
その事実が、エミヤの心を容赦なく突き刺していく。
「……言っただろう?もう二度と会えないと思っていた幼馴染殿に、なにかしてあげたいと思っただけだって」
やはりこの時も、アルマドの表情が見えないのがもどかしかった。
(どうしたら伝わるの)
「私、貴方にそんな大層なこと求めてない。ほんの少しの時間をくれるだけでいいの。ちょっとだけの時間、一緒にいられたら、それで――」
思わずそう口にして、エミヤは押し黙った。随分ちぐはぐなことを言っている。
抱いてほしいと言ったり、一緒にいられればいいと言ったり。
そもそも、こんなことを言ってなにになるのだろう。
エミヤは確かに、彼の寵姫の立場と報奨金を欲している。
(……そうだ。最初はただ、報奨金を得るためだけに欲しかった寵姫の立場を、今はそれだけでいいからほしいって、それだけを本当にしたくてたまらない)
噂を掻き消すために抱いてほしいと口にしながら、アルマドは決してそんな理由ではエミヤを抱かないだろうとわかっていながら、心ではアルマドがそれに応えてくれるのを期待している。
(私は卑怯者だ。噂なんかを言い訳にして、アルマドに求めている)
今まで、エミヤが望むことを叶えてくれた彼だが、この願いはどうだろう。
甲冑の冷たさを服越しに感じ、エミヤはアルマドの瞳があるだろう場所を、じっと見つめた。
銀色の、美しい意匠の兜の中身に、想いが届くように。
「……好きだよ」
気付けばそう口にしていた。
一度外に飛び出した言葉は戻らず、ぽろぽろとエミヤの中からこぼれ落ちていく。
エミヤの心の中に降り積もった招待のしれないなにかが、殻を破って飛び出そうとする。
「私、アルマドが好き」
アルマドの、息を飲む音が聞こえる。
不思議なことに、いつもなら鎧に阻まれているアルマドの表情が、今はとてもよくわかる気がした。
「弁えない女がのぼせあがってると笑ってくれていい。お願いアルマド、私を抱いて」
心からの願いだった。
心臓が今にも飛び出してしまいそうなほど大きく跳ねている。
考えなしに跨ったせいで、鎧の装飾で内腿を打った。
冷たい鎧の腹に着いた手が、震えている。

そんなこと、今はどうだってよかった。
「抱いてよ、アルマド」
アルマドは、なんて答えるだろう――。

「そんなこと、言わなくていいんだよ、エミヤ」
銀色の兜は、まるで駄々をこねる子供をあやすように、優しい声で言った。
「僕の名誉のために、そんな嘘は吐かなくていい。君を抱いても噂はすぐにはなくならないし、君がそんなに責任を感じる必要はないよ」
ぞわ、と全身が粟立ったのをエミヤは感じた。
(伝わらなかった)
ひどい喪失感と胸の痛みがエミヤを襲い、震えていた手がぎゅっと拳を握る。
顔なんて見えないのに、エミヤはアルマドから視線を逸らした。
「……そう、だよね。ごめんね」
暖炉の薪が爆ぜる音が妙に大きく響く。
エミヤのそれは、その音に負けそうなほど小さな声だった。