アルマドが執務へ戻ってからも、エミヤは黙々と作業を続けていた。
アルマドの知人だという植物学者手書きの、メモのような植物生態の本には様々なことが書いてある。
アルマドと話した〝万能の種〟についても、彼が研究し実験した詳細が記載されていた。
これを読むだけで、アルマドがどれだけ信頼されているかわかる。
『〝万能の種〟が効能を発揮するのは、すり潰し湯で煎じたものが一番効いた。そのあとは生姜を与え体温を上げ、代謝を上げることがよい。ただし、場合によっては効きが悪いときもあり、それが病原菌や毒の種類によるものなのか、患者の体質によるものなのかははっきりしない……』
文章としては、生物生態というより医者の見解である。
この植物が人々の役に立つと確信し、医学も勉強した植物学者なのだという。
(この人の知識と、アルマドの用意してくれた環境で、苦しんでいる人々が救われる――)
それは、夢物語のようで、すぐそこまで来た未来のようでもあった。
夢中になって本を読んでいると、空もそろそろ翳ってきた。
エミヤは温室の火を消す前にすべての植物に目を通した。アルマドが丹精込めて育てた植物たちが、なんだか愛しい。
本を棚に戻し、使った食器を片づけてすべてに異常がないか確認してから、重く分厚いカーテンを閉める。
これが結構な重労働なのだが、これを閉めなければ夜の冷たさで植物がだめになってしまう。
昼の間に温めた空気をこうして夜の間も保つ術なのだ。今はまだ雪が浅いからこれでいいのだが、雪深くなると、これでは持たない。夜間も火を焚いて、空気を温めるという。
そういう時は、大体ここで眠る、とアルマドは言っていた。
すべてを終えて、エミヤはふかふかの外套を羽織り外に出た。
薄暗くなった空からは雪がちらちらと落ちてくる。
吐く息は白く、温室で温まった体は一気に冷えてしまった。
アルマドの部屋へと繋がる回廊を歩いていると、向こう側から高い笑い声が聞こえてきた。
(珍しい……。この回廊はほとんど人が通らないって、アルマドが言っていたのに)
事実、温室を行き来するようになってからこの回廊で誰かとすれ違ったことはない。
見ると、美しいドレスの上に鮮やかな外套を羽織った貴族のご令嬢達が数人、楽しそうにお喋りをしながらこちらへと向かっている。
エミヤは少し考えて、そろりと回廊の柱の傍へ寄った。
「あら」
元貴族とはいえ、落ちぶれた家の娘である。
(彼女たちがこのまま通り過ぎてくれたらいいんだけど)
そういう想いと、貴族に対する礼儀として端に避けたのだが、彼女らは目敏くそれに気づき、立ち止まってしまった。
これが普段着なのだろうか。舞踏会にでも招待されたかのような煌びやかかなドレスが、さばく音と共にこちらへと近づいてくる。
(彼女達なら、アルマドの隣に立つにふさわしいのかな……)
きらきらとした彼女達なら、あの美しい鎧を着た、気高い王に。
(いいなあ)
ぼんやりとそんなことを考えていると、それぞれが美しく着飾ったご令嬢達の視線が一斉にエミヤへと向けられた。
「お前、例の娘ね」
艶やかな紅が引かれた唇が、そう喋る。
れいのむすめね。
初対面で会う人間に対しての新しい挨拶だろうか。
「まあ、あの噂の?」
「鎧の王の寵愛を受けているという、あの?」
一人を筆頭に、ぴよぴよと囀りだす。
その視線にはどう贔屓目に見ても、興味と下世話な好奇心が含まれている。
「あの冷たく硬い鎧を相手にするのだから、女も鋼鉄のような女かと思ったら違うのね」
エミヤは驚いた。
馬鹿にされたからではない。
彼女達が、この国の王であるアルマドを隠すこともせず揶揄したからだ。
「あの鎧の下にはどんな醜い顔が隠れているのかしら?お前を家に呼んで、絵描きにでも描かせましょうか」
ほほほと高い笑い声が響いた。
一人ではなく、二人、三人……。その場にいた令嬢全員が楽し気に笑っている。
何一つ、面白くもないというのに。
エミヤの胸の中で、真っ黒いなにかが膨れ上がった。
「忠臣であるはずの貴族の娘が、そのように主である王を嘲笑するとはお家の躾が知れる。私の口から、躾なおしてもらうよう直接王にお伝えしましょう。貴方達のお名前を教えて頂けるかしら?」
嫌味を言おうとまるで彼女たちのような口調になってしまったが、そんなことも気にならなかった。
今、自分の眉が吊り上がり、目が怒りで吊り上がっているのがわかる。
皮肉を言われあ令嬢達が、一気に気色ばんだ。
「なんて失礼な」
「礼儀を知らない町娘だとは本当ね」
その言葉、そっくりそのまま返してやりたい。
「お前のような女、王の権力と金に寄ってきた蛾のようなものよ」
エミヤは言い返そうと口を開いたが、その言葉にだけ反論できなかった。
よほど腹に据えかねたのか、一番前に立つ令嬢の手が振り上げられる。握られていた硬そうな扇子が、エミヤの頬を弾いた――。
「お待ちなさい」
その前に、その人は現れた。
見れば、長い法衣のようなものを着た男と、以前会ったことのあるエン技師がこちらに向かってきていた。
「我が王の寵姫に手を上げるとは。淑女である貴女方らしくありませんね、アナンベル嬢、フィア嬢、シアスタシア嬢」
不気味な緑色の長衣の男が、まるで呪いを吐くような声でそう告げた。
名前を当てられた令嬢たちは、怯えたような肩をそびやかした。
「ゴースト……!」
忌々し気にそう小さく吐き出したかと思うと、さっと一礼してエミヤなどいなかったかのように連れ立って行ってしまった。
カツカツと高いヒールの音が、煩わしくも遠ざかっていく。
(……まるで小さな嵐だったな)
無駄に掠ってそのまま通り過ぎて行っただけの暴風である。
「無事か、エミヤ嬢」
エン技師がにこやかに右手を振りながら近づいてきた。
「エン技師、お久しぶりです」
エン技師に笑いかけると、エミヤは彼の隣に立つ長衣の男に向き直った。
「助けていただいてありがとうございます。貴方がアルマドのゴースト?」
もう貴族ではないが、スカートの端を持ち小さく屈み、淑女の礼をする。
「ご存知で?」
言われたゴーストは、目を丸くした。
隣で、なんだお前ら、初めて会ったのか、とエン技師ぼやいている。
「さっきのご令嬢達がそう呟いていたから。それに、アルマドからも貴方のお話をよく聞きます」
いつもアルマドの口から飛び出す、〝ゴースト〟という男にやっと出会うことができて、エミヤははしゃいだ。
彼の名前はよく聞くが、会えることはないだろうと思っていたのだ。
「王がなんと言っているか気になるところですね」
「気配がないから、本当の〝霊〟みたいだって。でも、あんなに頼りになるなら、本物の幽霊でもいいって言ってます。信頼してるって。それを聞いて、いつもいいなあって思っていたの」
心から羨ましそうに言われ、、幽霊宰相は少し笑ったようだった。
確かに顔色が悪く、不気味な色の服も相俟って薄暗いところで見ると本当の〝ゴースト〟みたいである。納得の呼び名だ。全く何の情報もないまま会えば、エミヤも怯えていたかもしれない。
けれど、アルマドが心から信用している人物である。エミヤが怖がる要素など何一つない。
「しかし、あのご令嬢達も相変わらずだね」
「まさかエミヤ嬢にまで絡んでくるとは……、自分たちの言動を王に知られるとは思わなかったんでしょうかね」
エン技師とゴーストによると、以前から王に対しての忠誠心が低く、随分昔にはアルマドの妃候補であったにも関わらず、鎧を被った醜い王の座など望まないと、その話を断ったらしい。
通常ならなかなかできないことだが、彼女達を溺愛している両親と、そういったことに全く関心がなかったアルマドのお陰で、今ものうのうと王城への出入りを許されているらしい。
「王にとっては興味の欠片もそそられない方達で……、あんな傲慢がドレスを着たようなご令嬢、城の品位を落とすだけなんですがねえ」
「ちがいねえ」
二人ともなかなかに辛辣である。
「まさかそんなのに絡まれるとは思わなかっただろう。お嬢ちゃんは大丈夫かい。災難だったな」
エン技師がエミヤの顔を覗き込んで労わってくれた。
顎先にぽつぽつと生えた髭とよれよれの白衣のせいで、王直属の鎧技師には全く見えないが、そのたれ目には優しい色が浮かんでいる。
アルマドに歯に衣着せぬ物言いをする人物だと記憶だ。彼に対しても、アルマドはとても自然な形で接しているように見える。
アルマドの傍に、彼らのような人がいてくれてよかったと、エミヤは心から思った。
「アルマドが彼女たちのことを気にかけていないなら、私も平気。アルマドに直接あんなことを言うなら許せないけど、私に言ってくるだけなら、何度だって言い返してやります。あんな人達の冷たい言葉で、アルマドを傷付けさせたりしません」
アルマドのことなんか何も知らない彼女達に、何を言われたって痛くない。
「アルマドのかっこよさがわからないなんて、あのご令嬢方も大概だよなあ」
エン技師が、己の手で調律している鎧を褒める。
「はい、アルマドは、とってもかっこいいです」
その横で、エミヤは満足そうに笑って頷いていた。
「……私も、王にかっこいいですよって言ってみるべきですかね」
そんな二人の後ろで、ゴーストはこっそりと呟いた。