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 放課後になるまで、剣淵は佳乃と一言も交わさなかった。佳乃の方を見ることだってしない。かろうじて手紙は読んだらしいが。
 チャイムが鳴ると同時に佳乃は立ち上がり、剣淵の机を強く叩いた。

「剣淵、ちょっと来て」
「めんどくせえな。なんで俺が行かなきゃならねーんだよ」
「変態野郎って呼ばれたいの?」

 それでなくてもこの一日。剣淵の態度に苛立ちをためこんできた佳乃だったのだ。二人にしか聞こえない小さな声量だったが、有無を言わせぬ迫力がこめられていた。


 佳乃が選んだのは、特別教室棟の階段だった。屋上に繋がっているものの普段は閉鎖されているため、生徒が近寄ることはない。
 人の気配がない階段踊り場に着いて足を止めると、剣淵が口を開いた。

「早く用件を言えよ」

 大人しくついてきた剣淵だったが、その表情からさっさと話し終えて帰りたいのだろうと察した。

「昨日のことよ。忘れたなんて言わせないからね。いきなり教室にやってきて、その……キス、したでしょ……」
「なんだよ、その話か」

 昨日の感触を思い出しそうになって、恥じらって声量が弱まる。対して剣淵は興味なしと佳乃に背を向けた。

「なんであんなことしたの? どうしてあんたがキスをしたの?」
「うるせーな。話すことねーよ」

 話は終わりだ、とばかりに剣淵が立ち去ろうとしていく。
 だが佳乃はまだもやもやとした気持ちを抱えたままなのだ。その後を追いかけ、さらに質問を投げつけていく。

「何その態度! ちょっとはこっちを見なさいよ」
「俺に構うな」
「話はまだ終わってないんだから、待ってよ」

 何度声をかけても剣淵は逃げていく。階段の半ばまで追いかけたところで、佳乃は挑発に出た。

「あ。もしかして私のことが好きだからキスした、とか?」

 瞬間。剣淵の体がぴたりと止まった。

「でもごめんね! 私、好きな人がいるから気持ちに答えることは――」
「あー、クソッ! ごちゃごちゃうるせーって言ってんだろ!」
 剣淵の怒りが爆発し、怒鳴ると共にずかずかと佳乃に歩み寄る。
 その姿は、獲物に襲い掛かる肉食獣。体格のいい剣淵が迫ってくるのは恐ろしく、佳乃は怯えて階段の壁に身を寄せた。

「……ご、ごめ」

 言い過ぎた。と謝るよりも先に剣淵が押し迫る。
 逃げ腰になって壁に張り付いた佳乃の退路を塞ぐように近づくと、何も言わず手を振り上げた。

「――っ!」

 その動作にきゅっと身をこわばらせる佳乃だったが、聞こえてきたのは壁を叩く音。
 剣淵は壁に手をつき、苛立ちにこめかみを震わせながら佳乃に顔を近づけていた。

 いわゆる壁ドンというものなのだが、その単語が持ち合わせている恋愛の甘さはまったくない。佳乃が感じているのは、ただ恐怖のみ。

「俺は、」

 恐怖の塊となった剣淵が、怒気こもった低い声で呟く。

「お前のこと好きじゃねぇから。勘違いすんな」
「……じ、じゃあ、なんでキスなんてしたのよ」
「あれは――」

 佳乃にとって最も気になる言葉だったが、それを聞き取ることはできなかった。
 被せるようにして階下から声がする。それは佳乃でも剣淵でもない、三人目のもの。

「三笠さん?」

 声の主は、佳乃もよく知っている者。身にしみついた片思いによって反射的に目で追ってしまった。
 伊達享。奇しくも、昨日と同じ面子がここに揃ったのだ。

 普段は笑顔を浮かべている伊達は険しい表情をして、佳乃と剣淵を見つめていた。そのまなざしに軽蔑が込められているようで、佳乃の体から血の気がひいていく。
 昨日はキスシーン、今日は壁ドン現場を目撃されてしまったのだ。誤解を解くどころではない、誤解の上乗せ状態である。
 昨晩わんわんと泣いていたからか、緩みんでいた涙腺が揺れだす。視界がじわじわと滲んで、瞳の奥が熱い。

 ああ、悪いことを考えてしまったから罰が当たったのだ。嘘の罪はなんて重たいのだろう。後悔しても戻ることはない。静まりかえった場で、ぽたりと涙がすべり落ちた。